嵐と向き合う

 こうべを垂れて他者に願いを捧げる姿は、胸を張り手足を忙しなく動かす日常の振る舞いよりもよほど目を引く。
 逡巡の末にこの場を去ろうと後ずさろうとしたのと、視線の先の丸まった背が伸びたのはほとんど同時の事だった。

「よーし、終わりだ終わりだ!」

 静謐さを蹴飛ばす明るい声は、大聖堂の壊れた天井から空に吸い込まれていくように広がり羽ばたいていく。
矢のように通るそれが戦場で部下に勝利を信じさせる火種となるのだと、今の自分は知っている。

「……祈っていたの?」
「エーデルガルト!」

 肩をほぐそうと腕を回していた背中は声によって翻された。遠目にも分かるほど喜色の空気を纏って駆け寄ってくる姿につられて、エーデルガルトも靴音の反響に気を遣わずに歩み寄る。

「ん、もう終わったぜ!何か用か?」
「鍛冶屋に斧を持っていくのだけど……貴方の斧を借りたままだったから。それも出してもいいかしら」
「おお、頼むぜ。……って、そんだけか?」

 軍議の時でも良かったんじゃねえか、と笑い混じりに続けられた言葉に、滑らかに理屈を返す事は難しかった。彼の言う通り、用事は咄嗟に頭から捻り出した緊急性の低いものだ。

「……貴方が祈っていたのが気になったのよ」

 エーデルガルトはカスパルを探し求めていた訳ではなかった。偶然に通りがかった時に、腕を組み項垂れる背に落陽の光が緩やかに落ちる光景に引き寄せられた。それは快さではなく、彼が信仰に感情を預ける事への不可解さによる引力だった。溜め息混じりに舌に乗った率直な疑問の声は、自身の意図よりも低い音になっていた。

「ははは、その言い方!エーデルガルトはオレが女神様を信じるのは嫌か?」
「……分からない。そうなのかもしれないわね」

 笑い声と混ざった他意の無い問いは、ささくれだつ胸の内から素直な感情だけを汲み上げる助けになる。セイロス教団を相手取るからといって主への信仰心を捨てろと強いるつもりはない。権威と信仰は別のものなのだから。ならば揺るがない自己を持つカスパルでも、超常のものに縋る事があるのはなんら問題は無いだろう。理屈としては。
 肩を軽く叩かれて、エーデルガルトは思考の深みから我に帰った。こちらを覗き込んでいた顔は離れていき、微笑とともに傾げられる。

「そんな難しい顔すんなって。祈ってた訳じゃないしな。親父の事を思い出してたんだ」
「ベルグリーズ伯の事を?何かあったの?」

 思わず皇帝として軍務卿の動向を探るような口調になってしまったが、カスパルは気にする様子も無く首を振った。

「いや、昔を思い出してただけだ。十年くらい前だったか?大嵐の年があっただろ」
「そうね。一一七五年の翠雨の節に」

 十年前は外の天気も分からない状況にいたから、自分の記憶が役に立つ事はない。以前目を通した報告書の記録を思い出しながら話を促す。カスパルの視線は、過去の風景を探し求めるように周囲に泳いで、やがて亀裂の入った柱の一つに落ち着いたようだった。

「嵐の日のオレの実家は……なんというか、すげえんだ。ずっと空気がひりついてる。
川はどんくらい氾濫してるのか、領民はどれだけ死んでるのか、麦は大丈夫なのか。
それなのに嵐が通り過ぎるまで兵は出せない、手の出しようがないとなれば、そりゃ親父も皆も怖い顔するよなって、今なら分かるけど」

 アミッド大河に面した肥沃な平地を抱えるベルグリーズ領地は、嵐による洪水と冠水の危険を恒常的に孕んでいる。ベルグリーズ家の当主は、毎年夏には水害に備える為に帝都アンヴァルを空けて所領に戻る。嵐が到来した際の屋敷内の緊張感は、宮城の比では無いのだろう。エーデルガルトは話を妨げないように軽く頷いた。

「……十年前のその夜も家はぴりぴりしててさ、子供の頃のオレは参ってた。いつも鍛錬に付き合ってくれる隊長のおっさんもそれどころじゃないし、……雷、鳴ってるし……」
「……どうしたの?」

 小さな声で呟かれた末尾の言葉を聞き取れずに眉をひそめると、慌てた様子でなんでもねえんだと手を振られた。動揺で跳ねた声は、回想を続けるうちに平静を取り戻していく。

「嵐の音の聞こえない場所がないかって屋敷をうろついてよ。そういえばいつも静かな所があったなって、聖堂に行ったんだ。
 ……そしたらさ、親父が指を組んでた。目つぶって、オレの足音に気付かないくらい集中してさ」

 視界を閉ざし真っ直ぐに通る声だけを足がかりに、祈りを捧げるベルグリーズ伯を想像する。それは幾度か帝都で見かけた、礼拝の日課に通う軍務卿の幅広の背中と自然に結びついて、違和感なく描かれた。目を開くと、水色の瞳の揺らめきが飛び込んできて、珍しい事でも無いのではと唱えかけた言葉は空気に溶けていく。自分は彼の多くを理解出来ていないが、父を語る時に時折見せる畏敬の色もまたその一つだった。

「何にでも勝てるんじゃないかってぐらい強え親父にもさ、どうしようもないものがあるんだって、……オレはそこで初めて知った」
「どうしようもないもの……」
「大雨で川が溢れるのも、それで街の人達が死ぬのも、水で麦が腐るのも。犠牲を全部は無くせない。どうしようもないことだ」

 ぽつりと落とされた静かな声には、無辜の民を想うカスパルの素朴な怒りが滲んでいた。
 紋章や権力でどんなに強い力を得ても、大地の起こす天災を全て消し去る事は出来ない。 皇帝たるエーデルガルトにも、戦場で輝かしく勝利を掴んできた軍務卿ベルグリーズ伯にも。人を統べる者は、零に出来ない不条理な現実を常に突き付けられる。

「そうね。少しでも被害を減らす為に私達に出来るのは、前以て備えて、過ぎた後に手を差し伸べる事。多くの問題と同じように」
「……最近思うんだよ。あの時、親父は女神様に祈ってたんじゃなく、誓ってたんじゃねえかなって。
 どうしようもない事を受け入れて、それでも最善を尽くしてやるって事を。
 だから見届けて欲しい、ってさ」

 カスパルの清涼な声によって晴れやかに語られる願いが、女神に届くものだとはエーデルガルトには思えなかったが、カスパルが大聖堂に佇んでいた理由に繋がっていくのを感じて論争の種を撒く事は抑えて口をつぐむ。

「オレにとっては、この戦争は嵐と同じなんだ。だからオレも誓おうと思って、ここに来た。女神様でもセイロス様でも、オレとしてはなんでもいいんだけど」

 既に瞳の揺らめきは消えて、精悍な眼差しがまっすぐにこちらを見据えている。そこには、エーデルガルトが何より好ましく思う、自分自身を杖にして生きる純粋な意志の光が灯っていた。

「あんたのやり方に納得いかない時もある。それでも、オレはあんたの目指す未来に生きてみたい。
 だから、オレの信じるやり方で、エーデルガルトを勝たせてみせるから……見ていてくれよ、って」
「……。貴方という人は。私達は女神の尖兵と戦っているというのに」

 裏表を疑う余地も無い剥き出しの信頼を受け止めるのは時間がかかる。まごつく心を誤魔化すように、それを私ではなく女神に言うなんて、と呆れてみせれば、豪快な笑い声が返ってきて思わずほっとした。

「がっはっは! 敵として向かうなら、尚更きっちり監視しといてくれるだろうし。丁度良いだろ?」
「……ふふっ、そうかもしれないわね」

 彼は何も変わらない。自分にはどうにもならない環境を背負って生まれても、その巡り合わせを定めたかもしれない超常のものに禍根を抱く事は無いし、それはセイロス教団と対峙する現在も全く変わらないのだろう。その在り方を貫く人がいる事は心地良いと、今では率直に思える。
 真っ直ぐに向けられた信頼がようやく心に溶けて、エーデルガルトはその暖かさを確かめるように胸に手を置いた。

「でも、私は女神には何も託したくはない。誓いすらも」
「あんたはそれで良いよ」
「私は……。誓うのなら、貴方に誓いたい。
 貴方が生きたいと言ってくれた未来を、必ず作ってみせると」

 それは皇帝としての決意であり、共に在る事をたった今誓ってくれたカスパルへの感謝の念でもあった。カスパルの表情が理解の色を映すまでに数度の瞬きを必要として、それから空色の瞳が嬉しそうに細められていく。

「一緒に作る、だろ」
「……ええ。カスパル……貴方と共に、作ってみせる」

 飾り気の無い心地良い声と共に差し出された手に、意識せずとも口元が緩む。
 お互いの籠手が合わさって立てられた硬質の音は、鎮座する祭壇を通り抜けて天井から覗く夕空に消えていった。


2020.05.17
カスパル+エーデルガルト支援の「未来を切り拓く」というフレーズがとても好きです。



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