目指す先には君がいる

 窓が映す山々の一部は、にわかに降り出した雨の滴に歪む。雨の音は壁に阻まれて届かないのに、陽光を求めて息を潜める少憩の時間が部屋の中にも滲みこむように感じられて、フェルディナントは本にしおりを挟んで椅子を引いた。この雨が止むまでは、と頭を休めるきっかけを掴んだ心は、喉を潤す休息の象徴を欲して浮き足立つ。先週勧められた銘柄のテフを飲んでみようか、今日はいつもよりも夜を長く過ごすだろうから。
 フェルディナントは寝台に遠慮無く腰かけ身体を沈ませているヒューベルトに声をかける。ヒューベルトは書面に目を落としたままで、目にかかる前髪を揺らしもしない。

「私は一服するが、君はどうする?」
「こちらは急を要していますので」
「そうか」

 短く応えて、戸棚の一番手前にある普段使いのセイロスティーの茶葉の袋を手に取る。湯を求めて部屋を出て、茶器の乗った銀盆を手に戻る頃には、黒い姿は部屋を空にしていた。盆を机に置いて、先程よりも深く椅子に腰かけて膝を組む。ポットからカップに移されていく琥珀色の香りは、心を動かさぬ代わりに血肉に馴染む。紅茶を口に含み、心地良い熱さに頬を緩めて、先程まで読んでいた本に目を向けた。

 フェルディナントが読んでいるのは、セイロス教団の文献の一つである帝国貴族名鑑だ。士官学校生であった頃には閲覧を許されていなかったその本は、今は帝国軍属の兵であるなら誰でも目を通す事が出来る。持ち出しは変わらず許されていないので、朝を迎える前には素知らぬ顔で書庫に本を収めに行かねばならないが。
 二口、三口と喉を潤すと、フェルディナントは再び手元の文字に取り組もうと頁をめくる。
 先日旗色を翻した王国の小貴族と繋がりのある家を求めて借りた本だが、先刻にはその目的は済ませている。それでもこうして読み込んでいるのは、帝国の外から見た帝国貴族の記述の淡白さにすっかり興味を向けてしまったからだ。

 フレスベルグ家の威光もエーギル家の栄華も、忖度が無ければ硬質の冷たさの文で飾られる。フェルディナントが学んできた貴族の歴史と名鑑の描写の差異と、セイロス教団のかつての情報網の広さに目を細めた。
(臣民を導く為に連綿と続けてきた宮城での闘争も、外から見ればこれだけの事だ)
 思考の深みに入りかけた頭を慌てて振って頁を更に進めるが、結局は新たな節題に手が止まった。
 ベストラ家──フレスベルグ家の影に生きる領地を持たない特殊な侯爵。家名が背負う役割の説明書きと、歴代の一族の名と、仕えた皇帝の名だけが記される、前二節と比べればあまりに短い記述だった。

「…………」

 皇帝の冠の輝きを美しく保つ為に尽くしてきた水面下の所業の一つ一つ、皇帝を叱咤し慰める為に奔走する日々の従者としての心遣い、皇帝が立ち続け歴史を塗り進めていくために必要なベストラ家の存在そのものの偉業は、紙面に残る事はない。緩やかに滑り落ちてきた髪を背中に払って、フェルディナントは末尾の文字列をなぞる。既視感がある。記録という形に残らない、知られざる功績を秘めた存在。自身がそうありたいと光明を見出したある一つの名前。

「……。ああ、そうか……君は……」
「調べ物に随分と時間がかかっているようで」
「……驚いた。早かったな、ヒューベルト」

 部屋の扉に目を向ける。書類と別れを告げて部屋に戻ってきたらしいヒューベルトの空いた両手に、フェルディナントは微笑む。ヒューベルトの視線が開いたままの本に落ちて、間の悪さに内心肩をすくめた。後ろめたさは無いものの、不在の折に彼を暴こうとするような振る舞いとして誤解されてもおかしくはない。

「まあ、約束ですから。
 ……おや、ヒューベルト=フォン=ベストラ宮内卿の名前はありましたかな」
「ある訳がないだろう。五年前に改訂が止まっているのだぞ」
「それは僥倖」

 とっくに、下手をすれば五年前の時点で、閲覧の禁じられていた主だった本に目は通しているだろうに、ヒューベルトは初耳だと言わんばかりの反応をして口元を歪めた。

「記録されたくはないのかね」
「くく、少なくともセイロス教団の書物には」

 ふ、と微笑で返して、君が戻ってきたのならテフを淹れるかと立ち上がったが、心が頁の上の名前の羅列から離れない。

「……もしこれから記されるとしても、」

 触れていた最後の文字列は、政変の主導者の一人としての特記で他になく飾られている。
「ここに名前が一つ増えるだけなのだろうな。一一〇〇年間、ベストラ家の影なる功績が記録に残らなかったのと同じように、君が成してきた本当の功績も残ることは無い。それを……私は寂しいと思ってしまうな」
「……判然としませんな。貴殿の物思いに私を巻き込まないでもらいたいのですが」

 憂愁をおびて立ち尽くすフェルディナントに、ヒューベルトは胡乱な目を向ける。ため息をつきながらも、唐突な思索に付き合う姿勢は崩さないでいるようだった。

「私が成す事は私が知っていればいいのです。そもそも──」

 ヒューベルトは一歩歩み寄って、男の視線を釘付けにする本を丁寧に閉じる。橙色の瞳が驚きに丸まるのを横目に見遣ってポットに腕を伸ばせば、予想外の軽さに眉を上げた。

「エーデルガルト様の望む世が成就していない以上、私はまだ何一つ成しえていないのですから。気の早い話ですな」
「……そうだな」

 夕陽色の髪が首肯に揺れる。フェルディア遠征の日が迫っている。その日を越え戦乱を勝ち抜く事で、ようやく何を成すかを問う出発点に立つ事ができる。

「さて、もういいですかな。次は何を飲むのです? 淹れてきても構いませんが」
「私が淹れてくるよ。君が前言っていたものを飲んでみたい」
「もう入荷しましたか。昨日はまだ……ああ、いえ」
「? いや、賊討伐の礼が届いたのだが、その中に偶々ね」

 すっかり表情をほぐしたフェルディナントは、少し待っていたまえと空白となった椅子をヒューベルトに勧めて扉に手をかける。
 先程浮かんだ既視感は、フォドラ統一が出来たその時にはヒューベルトに話してみても良いのかもしれない。私が無欲に見えるとは、と鼻で笑う姿も想像出来るが、それでも伝えてみたいと思う。
 今はただ、彼が知る世界を一つずつ味わって試してみたい。記録に残らない生き方をずっと昔から選んでいる、彼への湧き出る愛慕を理解して飲み込んでいくように。



2020.04.12
記録が残らずとも



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