趣味の兵法書
「いきなりすまねえ。頼みがあってよ」
響き渡るノックから間を置いて表れた水色の髪の訪問者に、手に持った羊皮紙から視線を上げてヒューベルトは目を細めた。寮の部屋にカスパルがやってくるとは珍しい。
「本を貸して欲しいんだ。出来れば戦略の本がいい……オレにも分かるやつ」
カスパルの視線が、並んだ本棚の題名を眺めて捉えていくうちに、やや声色を落とした一言が付け加えられた。ヒューベルトは腰掛けていた椅子から立ち上がって、手近にある本棚の上方に向けて指をすべらせていく。
「構いませんが、何故私に? 書庫はお気に召しませんでしたかな」
「そうじゃねえけど……お前が好きそうな戦い方の載ってる本から知っとくのが、今は必要だろ。お前がエーデルガルトの軍師なんだから」
飾り気のない言葉に、ヒューベルトの動きがぴくりと止まり、道筋を外れて別の本棚に腕が伸びる。背に一筋の傷のついた一冊の兵法の入門書を取り出すと、手持ち無沙汰に部屋を見回しているカスパルに本を手渡した。
頁をめくり中身を軽く検分する相手の様子を見ながら、ヒューベルトは腕を組む。いくつかの実践的な専門書の選択肢から、この本を手に取ってしまった事に自分でも戸惑っている。最も平易で、最も長く手元に置いているこの本を。
「……流石に、オレだってこれくらいは頭に入ってるぜ」
困惑の声にそうでしょうなと頷く。カスパルについて単純さに呆れている部分はあるが、知識量に関して言えばそこまでは侮っている訳ではなかった。
「載っている情報の再確認もそうですが、著者の思考の癖に慣れておいてください。
次の本は著者の私観を多く含むものになりますから、それを貴殿に鵜呑みにされては困りますからな」
貴殿に限ってそんな事はないでしょうが、との心境は口にせず、同じ著者の名前が綴られた軍統制についての本も棚から取り出して掲げて指し示してみせる。七代前の軍務卿が執筆した、冷笑的に帝国軍を俯瞰して兵の思考を辿り戦略の利害を語る二冊の本は、幼きヒューベルトの好奇心を掴み、戦法の研究の楽しみと軍略の立て方の根幹を形作るきっかけになった本だった。
そういうことか、と借りた本を脇に抱えて、カスパルが人懐こい笑顔を浮かべた。
「次も貸してくれるってことか!?」
「ええ、貸すからには最後まで学んでもらわなくては。くくく……」
「ありがとな! これでもっとオレは強くなれるって事だ!
すぐ読み終わってみせるから見てろよ! 燃えてきたああ!!」
「速読しなくて良いので……内容を理解してから返しに来てください」
声も顔も輝かせて、言うが早いか飛び出していった後ろ姿に首を振る。相変わらずうるさい男だ。だが、あれでいて仲間の役に立ちたいという思いは如実にあるのだろう。そして、その中には主の存在も、かなりの割合で占められている筈だ。
自分は、もしかするとカスパルに期待をしているのかもしれない。未来を思えば詮無い事だと思考を打ち切って、ヒューベルトは扉の鍵を閉めた。
*
終業の鐘が鳴り終わっても本を広げて真剣な様子で目を落としているカスパルにエーデルガルトが話しかけたのは、級長としての責任感というよりはいくばくかの好奇心によるものだった。
「……今日は鍛錬に行かないのね。いつもは真っ先に訓練場に走り出すのに」
「うわ、驚かせんなって! ……これも鍛錬みたいなもんだ」
大仰に全身を揺らすカスパルに、笑いを抑えながらエーデルガルトは謝意を述べた。好奇心のままに机の上にエーデルガルトの視線が移る。広げられた本の章題と、横に置かれた傷のある深緑の表紙の一冊の両方によく見覚えがあった。へえ、と思わず笑みを和らげると、カスパルは頬を膨らませる。
「オレが戦略論を勉強してたっていいだろ」
「それは勿論。ただ、アルノー=フォン=ベルグリーズの著書を貴方が読んでいるのが興味深くて。この人……なんというか……」
「ほんと、性格悪いぜ! 敵も味方も軍人ってヤツを馬鹿にしているっていうか。
読んでると、なんでそんな事するんだ? ってむかついてくんだよ」
馬鹿にされているという誤解からのカスパルの怒りは、本の思想への怒りに切り替わっていったようだった。
「軍務卿の家に生まれながら、軍人の事が嫌いだったのでしょうね。だからこそ、常人には思いつかぬ思考法や策が成せる」
戦の為の効率的な設営、補給、交渉。戦場に出てからの策謀、兵の士気の操作。戦いに身を投じる人間そのものを憎んでいるからこその冷徹な視点が書かれている。いつだったか自身の従者は、この男の戦法は軍人への憎しみのあまり不必要な犠牲も勘定に入れているのが難点です、との評を残していたが。
ともあれ、目の前の人間を助ける為に全力を尽くすような直情な少年が、理解に難航するのは分かるような気がする。エーデルガルトはカスパルの隣の椅子に腰掛けて、広げた本がより見えるように覗き込んだ。
「この頁で悩んでいるの? ここで戦場をこの盆地に設定したのは、当時広まっていた祟りの噂への怯えを利用した──」
エーデルガルトが把握している範囲での言外の知識や著者の思想や自分の見解を補足して伝えては、文章の理解に至れた喜びと策略への不服にころころとカスパルの表情が色めく。その様子を隣で見るのが楽しくて、エーデルガルトの解説にもより熱が入った。頁を捲りながらやりとりを交わすうちに、夕食の時間を告げる鐘が鳴り響くのに揃えて顔を上げて、それからお互いに顔を見合わせて笑った。
「もうこんな時間なのね。ごめんなさい、つい口を出したくなってしまって」
「謝られる事なんかねえよ、ありがとな! 助かったぜ!
この本の考えも、あんたの考えも知れて良かった」
思わぬ単語を耳に拾って、エーデルガルトは首をかしげた。
「私の考え?」
「そ。元はと言えば、あんたの戦いやすいようにこの本を読んでる訳だしな。一矢で二羽をなんとやら、ってやつだ!」
「話が見えてこないのだけど、順を追って話して……」
エーデルガルトは眉根を寄せてなおも経緯を聞こうとしたが、机の上の物を鞄にしまい終えたカスパルは、自分の中で話を完結させたようであった。
「よーし、飯だ飯! 飯食って本読んでオレは強くなるぜえ!! じゃあな、エーデルガルト!」
風のように軽やかに走り去っていくカスパルを呆然と見届けた後に深く息をついて、エーデルガルトは思わず眉間を揉んだ。
「……相変わらず、落ち着きのなさには困ったものね。……でも」
カスパルの思考の真意が理解出来なかった訳ではなかった。ただ、言葉に出してもらって、もう一度確かめたかったのだ。
──卒業したら、そうだな……やっぱ、あんたのために戦うしかねえか!
一週間前に聞いた言葉が脳裏を明るく照らし、穏やかに目を伏せた。思い描く自分の未来に彼はいないが、それでも彼には強さを手に入れて欲しいと思う。素直な親愛が湧いて心を浸していくのを、エーデルガルトは静かに受け入れた。
*
「ヒューベルト、入っていい?」
「どうぞ、エーデルガルトさま」
黒髪の少年の優しい声に出迎えられて、少女は跳ねるような歩みでこじんまりした部屋に入り込んだ。段差に躓き栗色の髪が揺れて、傾いた小さな身体を少年が音もなく支える。嬉しさと恥ずかしさを隠し切れずに、少女は少年に抱きついた。
エーデルガルトが自身の従者であるヒューベルトの部屋に来たのは久しぶりの事だった。父や兄に「皇女が臣下の部屋に入り浸っては、臣下の方が困るものだ」と苦笑と共にたしなめられていたから。人目を忍んでやってきた経緯もあって、常よりエーデルガルトは浮き足立っていた。
抱きついた身体を離すと、左脇に抱えている本に目がいった。自分が到着するまで、本を読んでいたらしい。
「それ、お兄様も読んでいたのを見た事あるわ。なんのご本なの?」
「兵隊をあやつるための本です」
「ふーん……ねえ、それっておもしろいの?」
「楽しいですよ」
エーデルガルトは好奇心に任せてそろりと本に腕を伸ばすが、堂々と眼前で行われる悪戯に喉の奥で堪えるような笑い声が落ちてきて、目標物は高く上がっていく。それを追って腕を上に伸ばすほど、本はヒューベルトの手によって腕の届かない絶妙な高さの宙に浮いた。ついにエーデルガルトも笑い声を我慢できなくなって、本を巡ったじゃれあいが始まった。
「ふふ、ねえ、よませてよ」
「私の部屋に遊びにきてくださったのに、本をお読みになって帰るのですか?」
「ふふふっ」
大好きな兄とヒューベルトが好きなものだ、当然興味はあるけれど読みたいかと問われればそこまでではない。ただ、周囲の目が無いからこその気の抜き方があって、こういった悪戯は私室でしか出来ない事を幼いなりにエーデルガルトは分かっていた。だからついつい夢中になって、ヒューベルトの頭の上に掲げられた本を本気で取ろうと跳躍した。指先は小口をかすって、本はそのまま重力に身を任せて椅子にぶつかり鈍い悲鳴を上げた。
「あっ……!」
一気に血の気が引いて、エーデルガルトは床に落ちた本を拾い上げる。不幸に不幸は重なるもので、椅子の鋭利な部分で擦れたらしく、深緑の背に目立つ一筋の傷が作られていた。
「……ご、ごめんなさい!」
取り返しのつかない事をしてしまった怯えで震える手を自覚しながら、おそるおそるエーデルガルトは顔を上げた。理知的な金緑の瞳は、変わらず穏やかにエーデルガルトを見つめていた。
「今のであやまるのは変ですよ。二人で遊んだ結果であって、エーデルガルトさまのせいではありませんし、本が読めなくなった訳でもありません」
責めるでも許すでもなく、ただ疑問の色を乗せて見つめ返してくるヒューベルトの視線に耐えきれなくなって、エーデルガルトは視線を泳がせた。
「で、でも…ヒューベルトの物を……」
「これは暇つぶしに読んでいるものなので、大事な物ではないのです。
さて、この話は終わりです。焼き菓子が冷めてしまいますよ」
彼が誰にも責任を課すものではないと判断したのなら、例え自分が主の立場であろうとそこに追いすがる事は出来ない事をエーデルガルトは知っていた。今回もヒューベルトの好意に存分に甘えて、菓子に釣られてこれからの長いお喋りの一夜を楽しむ事を決心したのだった。
*
足音が聞こえる。
音に拾うのも難しい微かな振動だが、その規則的な足取りの持ち主はヒューベルトの何よりも大事な存在で、扉が叩かれる前から来訪者の名を間違えるはずもなかった。
ほどなく控えめなノックが辺りの空気を震わせて、ひそめた声に上塗りされた。
「ヒューベルト。入れてくれる?」
「愚問ですな。鍵は空いておりますよ」
絢爛に飾られた廊下からヒューベルトの私室に滑り込んで気が抜けたようで、訪問者のエーデルガルトは溜め息をついた。灯を絞った部屋でも仄かに煌めくような錯覚を起こす白銀の髪が揺れる。その髪を視界に入れた途端、ヒューベルトは反射で歯噛みしそうになって、衝動を必死で抑えて平静を貫く事に多大な気力を注ぐ。この場で怒りを表した所で自己満足にすらならない。第一、自分にその資格などあるものか。
「ヒューベルト、貴方の本を貸して欲しいのよ。……こうやって改めてお願いするのも変な感覚だけれど」
控えめに笑うエーデルガルトの口から零された頼みは、かねてより二人で交わしていた計画の一環であった。
皇位継承者となったエーデルガルトは、帝王学を日常に厳しく学ぶ事となった。それは国を統べる者としての必要最低限の知識であり、十分な建前の下で行われる監視行為でもある。しかし、エーデルガルトには更なる知識が必要だった。自分自身の野望の為の、人脈を得る方法と強大な敵に勝つ為の兵法が。今のエーデルガルトに頼れる知識の修得の選択肢は、本という友人しかない。
だが皇女として返り咲いて早々に宮城の図書室に足跡を残すと、悪目立ちして不審を呼ぶだろう。しばらくは大人しく周囲の言われた事のみをこなし、野望の為の知識はヒューベルトの私的な蔵書で得て耐えるべきだろう──それが二人の出した結論だった。焦る時機は見極めるべきで、今はそうではないはずだった。
ヒューベルトが気持ちを凪ぐ事に意識を集中させている幾ばくかの時間で、エーデルガルトはいくつかの本を見繕った。厚みも様々な本を机におろして、その内の一つを手に取って肩をすくめた。
「この本、……貴方にしては易しい本を読むのね」
エーデルガルトは深緑の表紙の背に走る傷を優しくなぞって、奇妙な違和感に手を止める。偏屈な軍人が書いた、冷徹な視点が特徴的な兵法の入門書だ。頭が切れて盤上遊戯も巧みな目の前の従者には、いささか易しすぎる内容だった気がする。書かれている内容は頭に残っているのに、どういった経緯でこれを手に取ったのかを記憶の片隅から引き出せない。
菫色の瞳を真剣に細めるエーデルガルトを一瞥して、ヒューベルトは目を閉じて肩を揺らした。
「くくく、今でこそ趣味の方にも自負はありますが、いきなり戦略を理解出来た訳ではないのですよ。何も知らない子供でしたから。
……エーデルガルト様なら、もう少し応用の効いた本が良いでしょう。選ばれたものと……これも、いかがでしょうか」
机上の塔がまた一つ高くなった音に、記憶を辿るのを諦めてエーデルガルトは目元を和らげた。
「ありがとう。……でもこれも貸してくれるかしら。木は本から、よ」
「もちろん、構いません」
エーデルガルトは苦もなく両手で本を抱えてから、無駄な身じろぎの一つもなく佇むヒューベルトを見据えた。
「ありがとう。……貴方は私の従者で、戦略家ではない。軍略が貴方の本分では無いのは分かっている。でも、貴方にこの知識を使ってもらう日が必ず来る。だから、」
私と共に、学んでいってほしい。少しの躊躇いで言葉にならなかった吐息を、しかしヒューベルトは正しく諒解した。ヒューベルトにとって、間違えるはずもない、否と答えるはずもない問いかけであった。
「趣味が実益を兼ねるのは何よりですな。……どのような役であろうとも、貴方様についていきます。貴方様がなんと言おうとね」
一欠片の嘘さえ燃やし尽くすような激しい意志を写した金緑の煌めきを、これから決して忘れはしないのだろうと、エーデルガルトは確信を抱いて頷いた。
2020.02.09
無双ドロテア+カスパル支援でカスパルが本で学ぶ話が出てきて、嬉しい悲鳴を上げました。
ヒューベルトの個人スキル「参謀役」の単語に無限に夢を見てしまいます。