信心



 馬の蹄が石畳を蹴り、硬く規則的な音を鳴らす。一小隊分の馬が音を重ねれば、律動はさながら原始的な音楽のように街を揺らす。

(聖歌に比べれば、随分と心地良い響きではないか)

 戦闘の最中で浮かべるには益体もない思考に、フォドキアは口元を歪めた。
 フォドキアが統治する城塞都市ペイズトンは今まさに亡国コルニアの王子アレイン率いる反乱軍によって侵攻を受けている。既に城門は陥ち、こうして本城を護る自分と直属の兵を残すばかりだ。
 しかし敗色が濃くなった今に至っても、フォドキアは降伏するつもりはなかった。降伏して保護するべき民などここにはいない。息子の血で染められた道の結末と罰を、領民に最後まで味わってもらわねばならない。自分が天に還るのは──あるいは地獄に落ちるのは、それからだ。
 戦場にあって奇妙に整った音を立てる人馬の輪郭が近付くにつれ定まる。起伏に富んだアルビオンの大地を軽やかに進軍する騎馬隊の将とは一体いかほどか、僅かに期待した心がその正体を認めた瞬間に急速に醒めていく。

「聖心騎士ジェローム卿…」

 隼と一角獣の二つの旗を背負った男は、フォドキアと相対するために隊列から進み出る。

「久しいな。このような形の再会とは残念だ」

 質実を絵に描いたような佇まいは、フォドキアの記憶の中の姿とぴたりと一致する。アルビオン大陸南東の城塞都市ラージョンの領主ジェローム。アルビオンの地を治める僚友をかつては好ましく見定めていた。この地にゼノイラ軍が攻め入るまでは。
 数年前ハンプトンを足掛かりに大陸北部よりゼノイラ軍が侵攻してきた際、防波堤になるべきラージョンが無抵抗で降伏した為にアルビオンの趨勢は劣勢へと傾いた。籠城していた当時は知る由もなかったが、後からラージョンの選択を──ペイズトンに援軍が来なかった理由を知ったフォドキアがジェロームに対して抱いた失望は大きかった。
 聖心騎士としての彼の誇りは、天へ捧げた誓いは、その程度のものだったのか。

「ラージョン陥落の報は聞いていたが…早速解放軍に与しておられるとはな。ジェローム殿らしい」

 軽蔑の視線にもジェロームの表情は変わらなかった。どちらからともなく武器を構えると控える兵達が交戦の予感に殺気立つ。

「フォドキア殿、……今はただ、押し通るのみ」
「本気で行かせてもらう。旧交のよしみが通じるとは思わないことだな」

 号令と共に閧の声が空を揺るがす。翼をはためかせ宙に浮かんだ時、フォドキアの心も静かに枷を下ろしていた。

(これでようやく、終わるのだ)



 城塞都市ペイズトンの広場に人々が集うのはいつぶりになるだろうか。安堵を顔に浮かべた領民が兵士の指示に従い炊き出しに並ぶ光景をフォドキアは遠巻きに眺めていた。群衆を仔細に捉えようとして胸の痛みに視線を落とす。喜ぶべき、喜ばなければならない光景を、直視できない。
 視界の代わりに喧騒を集める耳が、ふと心地の良い音を捉える。馬蹄が路地を蹴る乾いた音だった。徐々にはっきりとする音にフォドキアは顔を上げた。

「…ジェローム殿」

 先日対峙した姿が嘘のように男は随伴も持たず無警戒に近付いてくる。下馬したジェロームはフォドキアに礼を示してから目尻を緩めた。

「おお、フォドキア殿。こちらにおられたか。大事はないか」
「…私に傷を負わせたのは貴方では」
「そ、それはそうなのだが。なればこそ予後が気になっていたのだ」
「問題ない。スカーレット嬢に治癒の祈りを受けた」
「む…そうか」

 ジェロームは僅かに口元を緩める。ほどなく漂う沈黙にフォドキアは息をつく。
 結局、フォドキア達はジェロームと率いる騎馬隊に、解放軍に敗北を喫した。城塞都市ペイズトンは解放軍によって制圧され、敗将となったフォドキアは死によってようやく絶望から解放されるはずだった。
 しかしフォドキアはアレインによって救われた。フォドキアに手を差し伸べただけでなく、アレインは迅速にペイズトンの民への配給を宣言し、その手配と実行に名乗りを上げたのが他ならぬジェロームであった。

「戦場での無礼を謝罪しよう。貴方の名誉に関わるからと、アレイン殿が大体の事情を話してくれた」

 ジェロームが解放軍に身を翻したのもそもゼノイラに従っていたのもひとえに領民を守る為だと。ゼノイラ侵攻直前にラージョンを襲った震災の話などいくつかの情報は初耳であったが、それよりもフォドキアを驚かせたのは先日まで敵だった人間の為に熱心に言葉を尽くすアレインの姿だった。

「領主は民を守らなければな…私が言えた義理ではないがね」
「フォドキア殿…」

 フォドキアは周囲を見渡す。修繕を放棄されて劣化した煉瓦、久しく火を灯していない街灯、痩せた身体で解放軍兵の誘導に従う民達。来訪者を迎えるこの大広場すら、かつての栄華は見る影もない。

「…酷い有様だろう。こうしたのはゼノイラ軍ではない。……私だ」
「……。先程住民の一人から、この街に起きた事を聞いた。騎士として、領主として…行ってはならない復讐だと、私の立場からは…言わなければならないだろうが、…」

 歯切れの悪さからして恐らく息子についての顛末も話に聞いたのだろう。断罪をためらうジェロームを生真面目だとは思ったが、動じはしなかった。
 領主として許されない行為なのも、天翼騎士として背信したのもとうに分かっている。それでも許せなかった。命より大切な息子が醜い保身の為に奪われた不条理を。
 それを他者に理解してもらう必要はない。息子を殺された絶望は、自分にしか分からない。

「ただ、…フォドキア殿が民を深く愛し信じておられたことは、分かる」
「……何?」

 全く予期しない言葉だった。ジェロームの視線はフォドキアから広場の群衆に移り、何かを見出そうとするように細められる。

「ラージョンにゼノイラ軍が攻めてきたあの時。私は…我が領民を信じきれなかった。地震で家を失い不安に惑う民がこの上戦火になど耐えられまい…抗戦は無理だろう、とな。民の顔を見もせず、民の信仰と勇気を疑い、守る事ばかりに躍起になった」

 ペイズトンに侵略の影が迫った時、フォドキアは民の誇りを守ろうとした。民の拠り所は、生涯を尽くしたパレヴィア教への信仰心と、アルビオンの清浄な大地そのものだった。降伏して命が助かっても誇りが失われれば意味が無い。民がそう誓ってくれたから、フォドキアは領主として彼らに報いて戦おうと決意したのだ。

「…だから即時降伏した。私は誇り高き聖心騎士団の一員だというのに、貴殿のように天と民の為に戦わねばならなかったのに…あの時、誇りを捨ててしまった」

 フォドキアとジェロームは相反する選択をとり、異なる痛みを伴って同じ幕引きに至った。零れ落ちるジェロームの言葉に懺悔の響きがある理由を、フォドキアはようやく分かったような気がした。

「ジェローム殿は、ご自分が保身に走ったと思っておられるのだな」

 ジェロームの顔が、僅かに歪む。

「私がゼノイラ軍に抗い続けていれば、…他の町の未来を変えられたのかもしれない。ペイズトンも、貴殿のご子息も……」

 息子について言及されて翼が無意識に引きつるのを感じたが、不思議と不快感は覚えなかった。

「…この街の復興を引き受けたのは、それが理由かね」
「打算もあるさ。だがそれ以上に…同じ領主として…民を愛するフォドキア殿を尊敬する身として、手を貸したかったのだ」

 差し伸べられた手をじっと見つめる。ジェロームの言葉を、素直に嬉しく思う。戦いの際に抱いた失望が嘘のようだった。ペイズトンの民を信じていたから裏切りが生まれたように、僚友に期待していたのだと気付く。
 悪夢の始まりの前に、この手を取ることが出来たのなら。

「…あの時に。ジェローム殿と共に、ゼノイラ軍と戦いたかった」
「……すまない」
「フ…感情の話だ。実際今となっては、ラージョンが抗戦していたところでどうにかなったとは思わん。…アレイン殿から支配の術については聞いたかね」
「あ、ああ…だがそれが何か」

 手を差し出したまま困惑するジェロームの眼差しを受けて、フォドキアは翼を揺らした。

「もしジェローム殿がゼノイラ軍に反抗していれば、術の標的になっていただろう。アルビオンは今以上の惨状になっていたかもしれない」
「それは…どちらにせよ仮定の話だ」
「貴方の後悔も詮無き仮定だ。そうだろう」
「だが……」

 難しい顔をして言葉に詰まる姿を見ていると、口元を僅かに解かれるのを自覚する。フォドキアが握手に応じようとしたその時、

「──フォドキア様!」

 突如聞こえた声に身体が硬直する。卑下と恐怖の混ざった声だった。今まで何度も投げられた醜い領民と同じ響きは、フォドキアの心をいともたやすく凍り付かせた。
 視界の端で有翼人の青年が駆け寄ってくるのが見える。身構えたジェロームがフォドキアと青年の間に立つように位置取ると、青年はびくりと翼を震わせた。

「何用かな。私が聞こう」
「あ、あの、領主様…フォドキア様が、見えたので……俺、伝えなきゃって…」

 ジェロームは固まったままのフォドキアと深く頭を下げている青年を交互に見やって眉間に皺を寄せる。

「……そこで話してくれ」
「ジェローム殿…!」

 やっとの事でフォドキアは声を絞り出したが、ジェロームは首を振った。

「フォドキア殿、話を聞こう」
「りょ…領主様が、解放軍に参加されるとお聞きして。が、頑張って、ください…どうぞご無事で。俺達の領主様が息災であるように、毎日祈りの時間を増やしますからっ…!」

 一息に吐き出すと、すぐさま背を向けて何度も転びかけながら青年は逃げ去っていった。さながら窮鼠が一糸報いるように情けなく見苦しい姿だった。
 立ち尽くすフォドキアに、ジェロームが気遣うような視線を向ける。今自分はどれだけ酷い顔をしているのだろうと思う。
 あの青年の名前は知らないが顔は当然覚えている。本城の庭師の子供で、息子と言葉を交わしている場面を一度見かけたことがある。籠城と降伏を経て少しずつ痩せていく身体を引きずって剪定を続ける青年を、フォドキアは館の窓から眺めていたのだ。
 息子が亡くなってからずっと、民の縋る眼差しを憎しみ民の声を呪っている。呪縛から解放されたいと願いながら、脳裏には言葉を交わした民達の記憶が刻み込まれて、今もなお離れる気配がない。

「フォドキア殿。私が声をかけた者達も最後には必ず口にしていたよ。領主様が生きていて良かったと」
「……貴方がそうであるように、私の半生は領民と共にあった。生き延びたところで私は…私はもう……」

 ままならない自分の言葉すら、ジェロームは黙って聞いていた。その無愛想な顔は信頼に値すると思った。領主として命を尽くした時間を、その重さをきっと彼は知っているだろう。
 ゼノイラの要求を言われるがままに受け入れ民を締め上げた今でも、フォドキアに祈りを捧げる民がいる。それを苛立たしいと思う一方で、奥底で何か穏やかなものがじっと身を潜めているのも分かっている。

「だが、もし…やり直せるなら…」

 掌をじっと見つめる。躊躇いながらも、フォドキアは右手をジェロームに差し出した。フォドキアとは正反対の迷いのない手によって、その掌はしっかりと握られる。

「ジェローム殿…しばし貴方にペイズトンを預けても良いだろうか。かつて愛した…私の街を」
「心して引き受けよう。戦いが終わり、貴殿がここに戻ってくる日まで」
「……戻ってくる、か。今の私を見ても、ジェローム殿はそう思うのか」

 顎に指を当ててジェロームは頷いた。

「…領主の端くれとしては、そう信じている」
「信じている、か。それは…裏切りたくないな」

 それは領主フォドキアが抱く、心からの思いだった。


2024.06.12
対照的なアルビオンの領主の道が明るくあるように

親密度会話が欲しくて妄想しました。



index作品一覧