隔たれる心


 何が起きたのか分からなかった。眉を下げた笑顔で一方的に別れを告げて、入るべき扉とは逆の方向に歩みを進めていく友の姿は現実だろうか。
 現実だというのなら、今すぐ追いかけて背中を叩いて、そっちじゃねえから早く来いよと怒りに行かなければ。腕を引いて猫屋敷の扉をくぐれば、溜め息をつきながらも振りほどかずに結局ついてくるだろう。それが二人のお決まりの流れなのだから。
 そうしてみせれば妙な話は終わりだったのに、その背中が木々に紛れていくまでヴァンは足を動かす事ができなかった。
 
「……訳、分かんねえよ」

 響いた声音の弱々しさが信じられずに自嘲の笑いが漏れる。
 ナッジと方々を旅するのは楽しかった。ナッジだって自分との冒険を楽しんでいた。そんな事は問うまでもない当然の事実だと思っていた。自分が、ナッジが、それを手放す可能性があるなんて一欠片だって考えたこともなかった。

「最良の方法って、どういう事だよ。何、言ってんだよ……」
「もしかして、……アルノートゥンに行くつもりかもしれない」

 暗い声に不意を突かれて振り向くと、焦燥した様子のジルが立ち尽くしている。ぶつける先を見つけた雑然とした怒りの声はまだ揺れていた。

「なら、いつもみたいに俺達と行けばいいだろ! なんで!」
「それは……」
 胸の鼓動が早鳴る。言い淀むジルを直視したくなくて顔を背けた。アルノートゥンの現状と、親友が一人で立ち去った意味が繋がる事を認めたくなかった。最近各地の街を騒がせていた挙兵の噂は当然耳にしている。そんな事より暗躍している怪しい奴らをぶっとばしてやると意気込んでいたから、対岸の話だと重要視していなかったが。

「ジラーク将軍に味方するんじゃないか。ナッジは……コーンスだから」
「っ! ふざけんな、ナッジはっ……!!」

 頭が揺さぶられる感覚に耐えきれずヴァンは駆け出した。今度は心通りにがむしゃらに足が動く。そうだ、今からでも、追わなければ。
 
 猫屋敷からエンシャントへ続く一路は、森の中とは思えないほど平易な道だ。オルファウスがどういう細工をしているのか見当もつかないが、ただ一人の背中を追いかけて走るのにこれほど好都合なことはなかった。もっとも、テラネでもこうやって森の中を走り回って、採集に出かけたナッジを探しては遊びに誘っていたから、多少の木立では見失わない自信はあった。
 やがて形を結んだ、見慣れた人型の輪郭に向かって名前を叫ぶ。輪郭が揺らめいて、動きが止まる。ここまでの疾走よりも、近付くまでナッジがこちらを見返す素振りを見せない事がヴァンの心臓に負荷をかけていく。勢いのまま腕を捕まえると、やっと観念したように振り返った。

「ハァ、ハァ、……っ、ナッジ……!!」
「……ヴァン」

 抑えられたナッジの声は、却ってヴァンの不服を募らせる。

「ナッジ! さっきの、なんなんだよ!? あんなんで納得できるかよ!」
「納得なんか、しなくて良い」
「なっ……!」
「僕が目的を言ったなら、黙って見送ってくれた? 違うよね」

 ナッジは笑った。ヴァンの向こう見ずを諭そうという時に見せる砕けた顔だった。いつも通りの友人の様子に、感情の波が引いていくのが自分でも分かる。波が更に重く澱んでいくことも。

「なあ、ナッジ……アルノートゥンに行くのかよ」

 ナッジの返答は無い。よぎる不安を誤魔化したくて構わず喋り続ける。

「……ディンガルのじーさんが戦いの準備をしてるんだよな。反乱を止めに行くんだろ? なら、俺も行くに決まってんだろ。ジルだって行くさ。パーティを抜ける必要なんか無い。だろ?」
「…………」
「人間とコーンスで戦ってる場合じゃねえよな。世界で悪巧みしてる奴等をなんとかしねえと……そうだよ、オルファウスにネメアの事を言わねえと!
その為に猫屋敷に来たんだし……な、ほら、戻るぞ。言いにくいけどよ、けじめはつけねえと」
「……ヴァン」

 ナッジはただ目を細めている。また嫌いな顔に戻ってしまったと、ヴァンは唇を噛み締めた。こちらの話に耳を傾けているようでいて、答えをヴァンとの会話に見出そうとなんてしていない。思索を曖昧に濁してみせるその仕草が、昔からヴァンの心を何度も苛立たせ、ざわつかせてきた。

「だから、アルノートゥンは、それから……。
 ……。……ナッジ。
 ……お、お前は、コーンスじゃなくて、ナッジだろ?
 反乱なんて、関係、無いだろ……」

 誰に諭されずとも、本当は分かっている。ずっとナッジの隣にいた。祖父を語る時に見せる自慢げな表情の幼さも、テラネの大人達に冷笑される姿も、旅の途中でコーンス族と出会う度に浮かべる嫌いな顔も、知っているのだから。
 ナッジは、ジラークに協力する為に自分達の下を離れる。そして人間を相手取って武器を取るのだろう。そんな事は分かっている。
 それでも、ヴァンはそれを認める事は出来なかった。反乱にナッジが参加すれば、自分とナッジが敵同士になる。それはヴァンの中の理屈とは絶対に折り合わない事だ。何故なら自分とナッジは友達で、友達は傍にいて助け合うものと決まっているからだ。ついにヴァンには形容し得なかったナッジの煩雑で不可解な心を分かろうとするよりも、大事な友達が離れていかないようにするのが、ヴァンの正義だった。
 自分らしくもなく願うように絞り出した言葉は、結局は届かなかった。

「ううん。僕は、コーンスだよ。
 ……ヴァン。もう、行くね」
「っ、おい! 行かせねえ!」

 ローブを翻す姿に頭が熱くなる。無理矢理にでもナッジの足を止めようと、腰を落として構えを取ったその時だった。紫に濁った煙霧が立ち込め、ヴァンに絡みつく。煙を振り払おうとする意識は急速な眠気によって支配されて、思考の消えた身体は地面に倒れ込んだ。

「ごめん。しばらく、眠ってて」
「……な、……ッジ……」

 淡い光を帯びたナッジがしゃがんでこちらを覗き込むのを捉えるまでが、閉ざされていく視界への抵抗の限界だった。

「……ねえ、ヴァン。全てが終わるまで、君がテラネに居てくれるなら、どんなに……。
 ……さよなら」
 
 身体が揺蕩うような錯覚でヴァンの思考は地表に引き上げられた。

「ん、あ……?」

 地震だろうか。先の大地震以降、大陸各地で局所的な揺れや地面の軋みが頻発するようになったが、勘で判断するには、今回の揺れは大した事はないだろう。ジルかナッジが起こしに来るまで、二度寝を決め込んでも問題は無さそうだ。
 ぼんやりとしたまま身じろいだ拍子に、独特な香りが漂い出す。この臭いは馴染みがある。嗅覚を刺激されて瞬時に覚醒した意識は、遅れて自分が置かれている状況も思い出した。

「俺、……ナッジ、あいつは!?」

 飛び起きて周囲を見回すと、果たして近くに予想通りの小瓶が転がっていた。退魔の香水だ。眠っているヴァンが魔物に襲われないよう、誰が自分に香水を振り撒いたのか。考えるまでもない。

「……クソッ!!」

 瓶を眺めるうちに視界が少しずつ歪んでいく。泣くなんて格好付かないと、眉間に力を込めてみるが逆効果だった。何度手の甲で目元を拭っても、滲み出る涙を止められない。

「お前、生意気なんだよ! 喧嘩に、っ、魔法を使うのは…ナシって!
 前も、言った…じゃんかよ……! っ、う、……っ」

 自分の心を浸しているのが悔しさなのか苛立ちなのか悲しみなのか、ヴァンには分からなかった。分かる事に意味があるとも思えなかった。
 ナッジはここに居なかった。追いかけて、触れる距離に追い付いても、なおもヴァンの傍には居なかった。世界に振り回されて、遠くばかり見て、友情よりも大事なものを勝手に作ってしまったナッジが正しいなんて微塵も思えないのに、止められなかった。衝動的に拳を地面に打ち込む。

「ちくしょう……ちくしょう! 俺を、置いていくのかよ……!」
 
 どれだけの時間、せぐりあげながら何度も激情を叩きつけていたのだろうか。少しずつ呼吸が整い、いつの間にかひやりとしてきた空気が脳に行き渡る事で、胸の内の嵐も一旦の収まりを見せつつあった。
 腫れた指先を再度握り込み、ヴァンは立ち上がる。
 アルノートゥンが戦場になる前に、命のやり取りが始まる前に、ナッジを連れ帰ってみせる。
 ナッジが何を難しく考えていたとしても、自分がやりたい事は何も変わらない。リーダーのジルがこれからどうするかは分からないが、招集がかかる前に出来うる限りの手を尽くしたい。
 依然として足元に転がる小瓶を蹴り飛ばし、ヴァンはエンシャントへの行程を急いだ。

「ったく、世話が焼けるよな、はは……。……。
 ……ナッジ。絶対に、捜すかんな。お前は、ナッジなんだよ。俺のダチなんだ!」

2021.06.22
終わる前に傍へ行く/終わるまで遠くにいて



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