当たり前の未来
香ばしい匂い。ムラの少ない焼き色。艶やかにきらめく生地。釜から取り出したミートパイの姿に、ナッジはほっと息をついた。複雑な料理ではないとはいえ、初めて作ったにしては満足の行く出来映えだ。窓から見える太陽は未だ高く、仲間達と約束した帰宿の時間まで余裕がある。闘技場へ挑戦すると飛び出していった友人は、一番に宿に転がり込んでくるだろうか。パイの粗熱が取れたぐらいで顔を合わせられれば丁度良いのだが、とまで思考を続けようとして首を振る。
(僕……なんだかそわそわしすぎてる、かも)
友人の誕生日に浮き立つというのは、常識的には訝しまれる理由ではないだろう。加えて当日に祝える状況というのは、ナッジにとって初めて経験する特別なものなのだから。平静を保つようたしなめる理性に言い聞かせるうち、自然と頬が緩む。
(宿屋のご主人も快く厨房を貸してくれたし。自由に動けるって良いな。ヴァンには悪いけどさ)
テラネにいた頃は、彼の誕生日というのはヴァンの両親の為にあって、いかに息子が祝福されてこの世に産まれ落ち町にとって不可欠な存在であるかがテラネ中に喧伝される日だった。溺愛する息子の誕生祭にコーンスの孤児が顔を見せる失態の無いようヴァンの父が目を光らせていたから、ナッジは前後の日を見計らって自宅にヴァンを招いたり、ボンガ夫妻の邸宅に誘われて密やかなお祝いをするのが常だった。去年はヴァンが怪我に寝込んでいてお祝いどころではなく、今日こうして野宿続きの日々から解放されてロセンでの休息日と友人の誕生日が重なったのは幸運に違いなかった。
(でも、ネメアさんを助けに行かなきゃって時なのに……緊張感が足りてないよね。分かってる)
このロセンの宿を一歩出れば、昨年ディンガル帝国青竜軍によって踏み躙られた戦火の名残が目に入る。闇に囚われているネメアの安否も不確かな今、パイを焼くよりも成すべき事は山のようにある。
しかし今更葛藤したところで無意味だとも分かっていたし、何より、条理を無視してただひとりを優先するような親友の愚直さによって掬われた命なのだから、今日ぐらいは親友に準じたかったのだ。
ナッジがパイを片手に部屋へと戻って程なく、階段を駆け上がる音が耳に入る。勢い良く開かれた扉から現れた待望の友人に近寄ろうとして、素肌の至る所に刻まれている生傷に眉をひそめた。当の本人は、怪我などお構いなしといった風で手近な椅子に腰を下ろして手套と腕の包帯を解いている。
「なんだ、ジル達は戻ってないんだな」
「ヴァン、どうしたの! 薬は? 闘技場に行くのに、何も用意していかなかったの?」
「くすりよりもぐっすり休んですなおになおす方がいい、ってな」
「……ふーん、素直と治すもかけてるつもりなのかな。寝て治るならそれでも良いけどさ」
駄洒落に肩を震わせているヴァンに近付き軽く小突いて、右腕を手に取る。
「あ。先に肩から治してくれよ、しみるんだ」
毒気の無い笑顔だった。予想するまでもなく、ナッジの手当をあてにしている。昔から、擦り傷だらけで喧嘩から帰ってきたヴァンを看るのはナッジの日課だったし、冒険者となってからもそれは変わらない。
サブキュアの呪文を唱えつつ内在する魔力を練り固める。右肩の裂傷に手をかざして魔法を発動させると、数拍のうちに傷口が塞がっていく。続けて残りの傷にも取り掛かったが、幸いにして跡も残らず綺麗に治癒が出来たようだ。満足そうに大きく腕を回すヴァンを呆れて見やるが、内心は安堵していた。見慣れていても、所見で浅い傷だと分かっていても、傷だらけの友人を目にすると肝が冷える。
「へへっ、ありがとな」
「もう……。闘技場とはいえ、大怪我するかもしれないんだからさ。準備していきなよ」
「それより、聞いてくれよ。今日は六人抜きまで行けたんだけど、次でヴィアリアリに当たったんだよ。くそー、あの蹴りをかわせてたらなぁ!」
「今日の試合、ヴァン以外にも参加してたんだね」
身振りを交えて試合を再現しようと苦心するヴァンに相槌を打ちながら、ナッジは濡布で手を拭う。経緯は分からないが、ヴァイライラとヴィアリアリの双子姉妹に対して、ヴァンは格闘術の好敵手として闘志を燃やしているようで、妹の方は時折それに付き合ってくれているようだ。親切ではなく精神年齢が同じ可能性もあるのかも、と思わなくもないが。
「最近訓練で手合わせしてもらってるんでしょ。そっちでは一本取れてるの?」
「……手応えはあるんだけどな」
「そっか、やっぱり強いんだね彼女。すごいなぁ」
「ちぇ、俺も褒めろよな」
ヴァンも冒険を通じて急成長していると思うが、それでも単純な組手では及ばないらしい。すねるヴァンの為にミートパイを渡してあげよう、と食器を用意した机に近付くと、そこで初めてパイの存在に気付いたようで弾んだ声が上がった。
「っと、なんだそれ。貰ったのか? うまそう!」
「ヴァン、今日が何の日か覚えてないの?」
「俺の闘技場優勝予定日」
「はいはい、残念だったね。ボケとしてはいまいちじゃないかな」
「なんだよ! 本当にイケそうだったんだって」
悔しそうな声に違和感がある。まさか、とぼけている訳ではなく本当に自分の誕生日に思い至っていないのだろうか。
「……ねえ、今日、3月31日だよ?」
「……。あ。俺の誕生日だ! そっか、もう月が変わるんだな」
振り向くと得心がいった様子で笑うヴァンと目が合った。例年あれだけ両親に盛大に甘やかされているのに、自身の誕生日を失念しているなんて。まったくこの友人は、目立ちたがりなくせに妙に頓着しないところもあって、話していると肩の力が抜ける。
「まぁ、気持ちは分かるよ。旅してるとさ、一日があっという間で……テラネにいる時と、時間の進み方が違うよね」
「だな。野宿してると細かい日付とか忘れちまう」
「いいかげんだなぁ」
「うるせえな。……ってことはさ、それ俺の為に作ったんだろ?」
ナッジは素直に頷く。ナイフで切り分けて少し形の崩れてしまったパイを二片皿に乗せ、目を輝かせて待っている友人に差し出した。
「うん。おめでとう、ヴァン」
ヴァンは照れたように笑いを漏らして、パイを素手で掴んでかぶりつく。
「うめえ! なんだよ、付き合い悪いと思ったらこんなすげえの作ってたのかよ」
飲み込むや否や感嘆の声を張り上げるヴァンの姿に、無意識に組んでいた指をほどいた。喜んでもらえて良かった。
「ふふ。そうじゃなくても、闘技場は行かないけどね」
「んだとぉ? 俺の戦い方を高い片端の席から見て学んだ方が良いぜ、ってな。
ププ……今日も俺のセンスは冴えてるぜ」
「戦いと高い……いや、戦い方と高い片端でかかってるのかな。……うーん?」
思わず感心しそうになって、ナッジは慌てて首を振った。言葉遊びとしては及第点としても、全くギャグとしての面白さを見出せない。誕生日だし、多少のことは見逃すけれど。行儀の悪い手掴みの所作とは裏腹に、音を立てず咀嚼しては顔を綻ばせるヴァンを眺めるうちに感慨に浸っていく。ヴァンの駄洒落にどうこう思える日々に帰ってくるなんて、ほんの一月前には考えられなかったことだ。
「……まあ、こうして元気なヴァンを祝えて良かったよ。色々あったもの」
ナッジの視線が気になったのか、つられてヴァンもしみじみとしている。
「確かにな。無敵の俺だけどよ、ガルドランの奴に刺された時は正直ヤバいと思ったぜ。ずっとキズがズキズキしてて」
「もちろん、それもあったし……」
挨拶を交わすように、なんでもないような軽さで言葉を続ける。事実を伝える以上のなにかが滲まないように。
「僕がさ、ヴァンを殺してたかもしれないでしょ」
二片目のパイに伸びていたヴァンの指先がぴくりと震えて、固まる。ヴァンの脳裏には、一月前の聖光石の坑道での光景が浮かんでいるだろうか。話題にあげたのは今日が初めてだったが、友人に向かって魔法を放ったあの瞬間を、ナッジは一夜たりとも忘れたことはなかった。けれどヴァンは、きっと普段は忘れているのだろうと思う。何故なら彼にとっては意味のない戦いだったから。意味のない戦いであってくれたから。
「ナッジ、お前」
「あの時さ。ヴァンの一撃をかわせてたら……多分、僕は、君のことを刺して──」
ここまで喋るつもりはなかったのに。ヴァンの強い眼差しを曖昧な苦笑いで受け止めて、槍を取る感覚を思い出すように手を握りしめる。
戦場に、コーンス族の背水の陣に来たからには、ヴァンであっても容赦をするつもりはなかった。同時に、友人を手にかける自信が最後まで持てなくて、せめて渦中から遠ざけようと願った。ヴァン達がナッジを捜し出すよりも先に、自分達の決死の戦いは終幕を迎えて、コーンス達の夢はそれで覚めるはずだった。猫屋敷での別れが、友との最期の会話だと思っていた。
「ナッジ!!」
肩を揺さぶられて、ナッジは思考の海から引き上げられた。険しい顔をしたヴァンをぼんやりと視界に入れて瞬きを繰り返す。せっかくのヴァンの誕生日なのに、何をやっているのだろう。考えすぎの癖がまた出てしまった。
「大声出さなくても、聞こえてるよ」
アルノートゥンでの日々は、コーンス族の無念と震えながら戦いに臨む兵達の姿は、ナッジの記憶に色濃く刻まれている。ジラーク将軍に託された夢も自分を突き動かす灯火となって心に在る。
その上で、最後にナッジはヴァンの手を取った。友の隣で生に立ち向かうと選択した。コーンス族としての誇りに殉じるよりも、テラネのナッジとしてヴァンの隣に立っていたいと決めたのだ。ヴァンが生きていてくれたから選べた道だった。
「お前が俺に勝てる訳ないんだから、そんなの絶対にあり得ねえっての。ふざけたこと言ってんじゃねえ」
根拠のない自信もすぐ不機嫌を顔に出す愚直さも肩を掴む手の微かな震えも、その全てが一月前と同じ姿をしていて、ただ目を細める。自分が冒険者になったのは、この姿を守りたかったからだった。
「そうだね。……うん、君には敵わないや」
「……言いたいことあるなら言えよ」
確かに、言いたいことは聖光石の坑道での思い出ではないはずだ。しばし考え込んでから、小首を傾げて机上のパイを目線で指し示す。
「残りも食べていいよ?」
「おい」
言葉を流されて明らかにむっとしたようだが、溜め息をつくとヴァンはパイに手を伸ばし頬張る。
「うめえけど、むかつくな」
「……ねえ、ヴァン」
「ん」
頬をかいてからぽつりと言葉を落としていくのを、ヴァンは腕組みをして見守っている。本当にヴァンに伝えたいのは、今日の朝日を迎えた時の軽やかに浮かれる気持ちで、かけがえのないものに手が届く幸福の暖かさだった。
「命ってさ、簡単に失われてしまうんだよね。当たり前の事なのに、テラネにいる時には本当の意味で分かってなかった。
今日みたいな日も、もっと大事にしなきゃいけなかったんだ。
ヴァンと二度と会えなくなっても、後悔しないように」
「ナッジ……。ちっ」
細糸を渡った上に、この一瞬があるのだとするなら。親友に告げるべき感謝に迷う口に突然パイを押し込まれて、ナッジは目を丸くした。
「むぐ! ……む、んぐ。僕はいらないって──」
勢い良く立ち上がったヴァンに見下ろされた時、彼がたたえる静かな瞳に言葉を失って、いつの間に少し背が伸びたなあ、なんてどうでもいい感想が代わりに頭に浮かぶ。
「なあ、ナッジ。俺は信じてる。俺たちの力を合わせたら、死ぬような危険なんてどこにもないって」
「……。そう、だね」
「俺強いし、どんな魔物だろうが竜だろうが熱い拳でぶっ飛ばしてきたし」
「……うん。ヴァンの力だけじゃないけど。でも、強くなったよね」
「だろ? だから……だからさ!
俺が死ぬわけないんだ。お前も……死なない。
分かったら、うだうだ言うな。じゃないと、これ以上は祝われてやんねえ」
言い終えると、ヴァンは鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。乱暴な言葉だが、内に込められた熱がナッジには見通せる。ヴァンの不器用な言葉は、いつだってナッジの心を外に引き摺り出して希望を照らし出していく。これ以上調子に乗られても困るから、抱く眩しさを教えるつもりは無いけれど。
「……図々しいなあ」
「当然だろ? 俺の誕生日なんだからな」
大仰に胸を張るヴァンに肩をすくめる。不遜さは誕生日に限った態度ではないが、今日ばかりは譲るべきだろう。
「それもそっか」
「へへっ、ジル達にも祝われる準備しとかねえとな」
仕切り直しとばかりに背中を小気味よく叩かれたが、続く言葉は裏腹に歯切れの悪いものだった。
「……ナッジ。その、来年もよろしくな」
「改まってどうしたの?」
「うまく説明できねえっつの……そう、これ、ミートパイをまた食いてえから作ってくれってこと!」
少し大人びた輪郭と、晴れやかな笑顔につられて眉を下げる。本当は自分と同じ想いをヴァンも抱いているのだろうか。強さを求めて成長していくに従って幼い視野の純粋さも変質せざるを得ない可能性を、今まで考えた事はなかった。
「……あ、そっちか。うーん、来年までに駄洒落をもう少しまともにしてくれたらね」
「何をおおお!ギャグにまともさを求めたらつまんなくなるぜ?もっとめ、ぎゃくにおかしくなっていかないとな……ププッ」
ヴァンは腹を抱えているが、今日聞いた中で最低の駄洒落だと思った。
「も、もしかして、求めともっとねをかけてる?」
「分かってるじゃねえか! ナッジこそ、ツッコミの修行をしていかないと俺についていけなくなるかんな」
「ええー……」
「しゅぎょーい修行でも一緒にやるか! ひひ、ははは!」
「ちょっと力押しすぎるよ! パイでも食べて静かにしてて」
そろりと伸ばした腕は、いつの間に抱腹絶倒から立ち直ったヴァンに見咎められ掴まれた。
「お前こそ、もひとつ食らえ!」
数刻の馬鹿げた攻防の末、皿上の残り一片のパイを巡る争奪戦に負けてしまった。すっかり冷めた肉が醸す旨味を味わいながら口の中に突き入れられた物量に口ごもる。
「むぐぅ……ふぁん、ふぁりはお……」
「あははは! 何言ってんだよバカナッジ!」
「……んぐぐ。もう、ヴァンっ!」
(──ヴァン、ありがとう。僕は、生きるよ)
言葉は形とならず、最後のパイとともに下されて消えていって、再び浮かぶ事はないだろう。来年も再来年も十年後も、欲を掻くならヴァンが老衰してその命が天空神のもとに還るまで。ヴァンの隣にいる自分の姿を、今は迷わずに信じることができるから。だから、きっと次の誕生日祝いにも御馳走を作ってリベンジしてやろう。
目尻に浮かぶ涙をパイを飲み込んだ苦しさのせいにして、ナッジは笑った。
2022.04.12
当然のことには、感謝はいらないから