当たり前の未来



 陽が傾くにつれて、風が勢いを増してくる。切り立った山々の狭間に作られた、天空に一番近い街アルノートゥン。ノトゥーンの意思を色濃く映す青空は、時折人を拒むように雲で閉ざされる。
 吐く息が白く変わる頃、ナッジは歩みを止めた。酒場の扉を前に、呼吸を小さく整える。冒険者をしている以上は重用する場所だが、今回に至っては気後れする内心を認めざるを得なかった。だが、明日の出立に向けて携行食を準備しなければならない。強引に買い出しに名乗りを上げたのは他でもない自分なのだから。

「さっきの人達を見ただろう! 不用意に出歩いてもナッジが嫌な思いするだけだ。まだ連れて来るべきじゃなかった!」
「でも買い物は必要だし、今度の当番は僕でしょ?」
「次に回すよ。おれが行くから、部屋にいるべきだ。今のアルノートゥンは──」
「ねぇ、ジル。ほんの三ヶ月前に街を占領して食料も武器も奪っていった張本人が、何食わぬ顔で街を歩いているのってさ、嫌な思いをしてるのは誰なのかな」
「それはっ、……」
「……ごめん。君は心配してくれてるだけだよね。
 でも、行かせてほしいんだ。僕は冒険者だから、冒険に必要なことはしなきゃ。そうでしょ?」
「……。
 わかった……くれぐれも、気をつけて」

 ジルのやさしさは幼くて他意がない。だからナッジを含めて多くの仲間の心に響く。他意がないことは罪ではないと思うけれど、傷ついた顔をさせてしまって申し訳なくなるけれど、そのやさしさこそが分かり合えない理由にもなるのだと悲しくもなって、半ば逃げ出すように宿を出てしまった。

「ジルに当たっておいて、僕……。
 ……。ここに、ヴァンがいたらな……」

 出発前にジルと交わした会話を思い返して、ナッジは小さく息をついた。
 四ヶ月前に、人間族への反乱拠点として──その実は聖光石の確保のために、コーンス達はアルノートゥンを支配していた。ナッジもまた、将軍ジラークの麾下として町の統制を行った一人であった。主将が討ち取られて軍が崩壊するまでの一月の間、アルノートゥンの住民達は資金の提供を強いられ、また街の外に出ることも許されなかった。天空神に誓って略奪は行っていない。だからといって何かが変わるわけではない。今ここに残っているのは、コーンス達が敗北した事実と、敗北した侵略者達への住民の嫌悪だけだ。行為の代償として、甘んじてそれを受け止めなければいけないものだと頭ではよく分かっている。敵意に怯む資格はないのだと。

「……断られたら、次を探せばいいだけだよね」

 深呼吸を繰り返してから、ナッジはようやく腹を決めた。扉の取手に力を込める。冷気を防ぐために頑丈に作られた扉は開閉にぎこちない音を立てて、店内の人間にナッジの存在を知らせた。集まる視線と交わらないように目を伏せて、カウンターまで進む。

「コーンスか……」
「まだいたのか、あいつら」
「角つきは全員逃げ出したと思ってたが……」
「……あの顔、見覚えあるぞ」

 来客を告げるウェイターの大声や、食事を楽しむ喧騒に溶け込みきらない、いくつかの低い声が耳に届く。潜めた悪意を聞き取れてしまうのはテラネにいた頃からのナッジの悪い癖だ。反応を出さないように努めて、カウンターの奥の店主に頭を下げて金貨を机上に置いた。

「こんばんは。携帯食を七日分、お願いします」

 店主はナッジの顔を認めたが、幸いジルのパーティの一員以上の意味を見出さなかったようだった。
「噂のアハブの魔物討伐だろ、ご苦労なこった。ちっと待ってろ……」
 “竜殺し”ジルともなると、受ける依頼一つも話題になってしまうらしい。酒を注ぎながら指示を飛ばす店主を眺める。その様子は、酒場のせわしさに神経を尖らせた時の荒々しさと判別がつかなかった。
(良かった……)
 肩の力が抜ける。傲慢な願いとは分かっていても、ただの冒険者として扱われることに安堵している。そんな甘えを見咎める自己と対話をしかけて、慌てて眉間を揉んだ。ぼんやりと思索を泳ぐには、ナッジの背中に刺さる視線が危うく冷たい。

「おい、角つき」

 はたして視線と同じ温度の声が刺さる。対応してしまうのと言葉を流すのと、どちらが不穏の予感を短く収められるのだろうか。ためらいの後にナッジが振り返ると、坑夫然とした体格の良い男が席を立っていた。男は客席のにぎわいを護るようにナッジの眼前に立ちはだかる。

「ここは侵略者の角つきが来る場所じゃねえぞ」
「……用事が済んだら、帰ります」
「ちょっとちょっと、この人は白虎軍が来る前からのお客さんだよ」
 面倒そうに諌める店主の声を、男は嘲笑った。
「ハッ、冒険者のフリしてスパイでもしてたって訳か! あぁ?」

 ナッジは男を揺るがずに見上げた。今言葉で返しても聞き入れられる訳がないのは分かっていても、誤りは聞き逃せなかった。

「僕は冒険者です。それが嘘だったことなんて、ない」
「だからどうしたっていうんだよ! お前らが平和を壊したんだろ!」

 男の顔がさっと赤みを増す。危機を予感したナッジが目を閉ざすと同時に胸倉を掴まれて、衝撃に足がふらつく。男の剣呑さに周囲が呑まれて喧騒が止む寸前で、酔いに濡れた声が二人に割って入った。

「うぃ……どうしたぁ? つまらん喧嘩は酔いが醒めちまうねぇ」

 声の先では、長身の男が小首を傾げていた。酔いに口元がにやけているのに、佇まいからは少しも精悍さが損なわれていない。

「え、ゼネテスさん?」
「……、剣狼ゼネテス。……ちっ」

 思わぬ介入で出端をくじかれた男は、引き下がる理性を選んだようだった。ナッジから手を離して、溜息をつく。

「……角つきが居るんじゃせっかくのメシもまずくなる。親父、勘定!」
「ああ、あいよ」

 呑気に手を振って近付いてくるゼネテスから顔を背けて、男は足早に酒場を去っていく。続いてしかめ面で席を立つ幾人かの客の対応を終えて、ようやく店主はカウンターに包みをばらばらと置いた。

「ほら、あんたも待たせたね」
「あ、あの……」

 我に返ったナッジが携帯食を受け取るのにもたついているうちに、ゼネテスはしなやかに店主の前を陣取って空のグラスを掲げていた。

「マスター、俺も勘定頼むわ。もちろんタダでも良いぜ?」
「バカ言ってんじゃないよ、ゼネさん」

 店主の声がナッジにも分かるほど朗らかに丸くなる。近くの席からもゼネテスの愛称を呼ぶ声とともに笑いが漏れるのが聞こえる。
(やっぱりゼネテスさんってすごい)
 ナッジが口を開くより前に、ゼネテスの腕が肩に回された。楽しげな声がよく場に通る。

「ナッジちゃん、良いところに。宿まで介抱してくれや」
「ゼネテスさん、あの……」
「手持ちの金を使っちまったんでな。賭け酒に誘われる前に、今日は撤退しないとまずい。
 いやあ悪いねえ、ナッジちゃん?」

 上機嫌に片目を瞑ってみせるゼネテスの気遣いにナッジは恥じ入った。

「……そう、ですね。戻りましょうか」

 酒場を出てすぐに、ナッジは深々と頭を下げた。

「ゼネテスさん、さっきはありがとうございます」
「うん? 俺は楽しく酔いたかっただけさ。この町はシラフじゃ寒くてかなわん」

 腕をさするゼネテスにそれ以上何も言えず、ナッジはまごついた。どちらともなく吐いた息を合図にするように歩き出す。
 ロストール王国の傭兵としてゼネテスと相対してからずっと、彼の強さを尊敬している。旅路を共に出来るようになったのも、今助けられた厚意にも、浮かれる気持ちはある。だが二人きりになるのは落ち着かなかった。多分、何を話したらいいのか分からないのだと思う。ゼネテスの奔放さの中に理知があるのは明らかなのに、自分にはそれに触れる事は叶いそうにはないから。

「そうだ。お前さん、夜更かしは好きかい?」
 凍えた空気がゼネテスの明朗な声によって溶けるように白く立ち昇る。
「好きですけど、……あの、ゼネテスさんが想像してる意味じゃないと思います。月夜が好きなんです」

 月神の眷属であるコーンス族は夜より力を得る性質があるのだと、かつて祖父から教わった。月光を遮る雲のない夜は、セリューンの息吹を近くに感じる。月に照らされて身体に魔力が満ちていくのを甘受するのは快い時間だ。
 種族の特徴を知っているのかいないのか、ゼネテスは得心したように頷いた。

「照れなさんなよ、青少年。じゃ、今日は俺の飲み直しに付き合ってもらうか。月見酒も乙なもんだ」
「ま、まだ飲むんですか? ジルに怒られますよ」
「お前さんが怒らないなら、別に問題なさそうだな?」

 ナッジが怒れないのを承知の上で、ゼネテスは得意げに微笑んでいる。期待を裏切るつもりもないが、不承の色は声に出てしまった。

「さっき水を差してしまったのは僕ですから、今日は何も言いませんけど……」
「そりゃありがたい。お前さんにはいつも貸しを作っておこうかね」
「ゼネテスさんっ」

 ゼネテスは笑いに体を揺らす。何も知らない他者が見れば、今の二人はしどけない酔漢と気の毒な少年に映るのだろうか。けれど、ゼネテスを諌める立場に収まる時、ナッジの心は違う景色を映す。ナッジが猫屋敷でジルに別れを告げたあの日に見たものを。まるで喪失に慣れきったような、醒めたやさしい瞳のゼネテスに見送られたことを。

 宿に戻った二人はジルからたっぷりと心配の小言を貰ったが、ナッジが目を瞬かせているうちにほとんどをゼネテスがいなしてしまった。
 ジルに品物を渡して別れてから、ナッジは部屋のバルコニーに出た。冷たい風に揉まれていた方が気が紛れると思った。
(僕は自分勝手だな。ジルの言う通りだ……アルノートゥンに来る時期は、考えるべきだった)
 風切り音に混ざって氷のかちあう音が右隣から聞こえる。ゼネテスも酒を片手に外気に当たりに来たのだろうとは気付いたが、ナッジの意識は思案に浸ったままだった。
(僕らしく生きるって決めたけど、……こういうことじゃ、ないはずだ)
 不毛な自己嫌悪に足をとられかけた瞬間、風がしんと止んだ。無意識に留めていた息を静かに吸う。

「相変わらず、アルノートゥンの天気は気まぐれだなあ……」

 グラスの奏でる音も止んでいるのに気付いて、視線を動かす。
 悪戯っぽいゼネテスの瞳とかちあって、ナッジはずいぶんと見つめられていたのだと知った。

「……あの、どうしたんですか?」
「あー、ナッジ。今まで考えたこともなかったが……。
 お前さん、もしかすると、酒はいけるクチかい? コーンスはいつから飲むもんなんだ?」
「あ、え? きゅ、急ですね?」

 ナッジは首を傾げる。よく考えてみれば、冒険者を始めてから一度も酒に誘われた事がない。

「本当は飲んでも大丈夫な歳ですけど、飲む機会がなかったです。酒場でもお茶が出されるし」
「はは、そりゃヴァンちゃんと一緒じゃ酒は出てきやしないだろうさ」
「僕だけ頼んだら怒るだろうなあ。ずるいぞ、俺にもよこせ、って。……ふふ」

 背伸びしたい一心で酒をねだっていたテラネでの友の姿を思い出すと自然と笑みが浮かぶ。気分が少し楽になってきた。

「友達同士の乾杯はもう少しの辛抱ってところだな。
 ……よし、お前さんは一足先にお勉強だな。俺のオススメだ」

 部屋に入ったゼネテスは、ほどなく口径の広いグラスの把手を握って戻ってきた。戸近くのこじんまりとした机を顎で指し示されたので、ナッジは素直に傍らの椅子に腰掛ける。
 ゼネテスも同じように正面に腰を下ろして足を組んでいる。よく分からないが、自分も酒を飲む流れらしい。机に置かれたグラスには夕陽色の液体が満ちて揺られていた。

「ゼネテスさんのオススメ……だ、大丈夫かな……?」

 ナッジは液体を覗き込む。収穫を待つ果物の熟れたにおいが鼻を抜けた。途端に忘れかけていた記憶が色づいて、躊躇が芽生えて手が止まる。ゼネテスは苦笑していた。

「酒を前にしてそんな難しい顔出来る奴はそうそう見ないねぇ。苦手だったかい?」
「あ、ごめんなさい。おじいちゃんに怒られるかな、って考えちゃって」
「うん?」
「僕のおじいちゃんはお酒が嫌いだったんです。
 コーンスは酒を入れない。あんなものは気付けの時にしか使うものじゃない。酒は心を呑むのだから、って」

 祖父の教えのいくつかは、本意をほどけないままナッジの記憶の片隅に置かれていて、ふとした拍子に開かれる。いつ、なんの為に自分に言い聞かせたのだったかは、もう思い出せない。
 コーンスがコーンスたる所以を、自ら手放そうとするなど愚かなことだ。そう言って空を見つめる祖父の表情を、幼いナッジの背丈では覗けなかった寂しさだけが、ひどく鮮明に残っている。

「なるほどねえ。……俺はそれが面白いと思うがな」
「面白い?」

 思わぬ言葉だった。ゼネテスはグラスの中の輝きをあやすように揺らす。その仕草はどことなく洗練されている気がして、ナッジはわけもなくどきどきとしてしまう。

「ずっと正気で理想の姿を演じるなんて、人には……もしかすると神様にだって土台無理な話だろう」
 溶けかけた氷ごと酒を飲み干して、ゼネテスは言葉を続ける。
「だから心は、どこかでほぐさなきゃいけない。弱くて情けない部分を認めてやらないといけない。
 そんな時に……心の本音を呑み込む時にはさ、酒っていうのは丁度良いもんなんじゃないかね」
「……。ゼネテスさんも、そうなんですか?」

 口をついてしまってから軽率な言葉に後悔した。ゼネテスはただ悠然と肩をすくめる。

「そう見えるかい? 俺はな、依頼を終えた後にがつんと頭に来るのをやるのが、それはもうやみつきになってるわけさ。
 ……ほら、じいさんは飲むなとは言ってないんだろ? お前さんもぐいっといってみな」

 ゼネテスへの言葉と小さな憧れをたっぷりと反芻して、結果としてナッジは覚悟を決めた。グラスを手に取り、口元に近づけ少量を含んで、勢い良く飲み込む。

「……わ、」
 鼻を通り抜けるみずみずしい匂いに、ナッジは目を丸くする。
「おいしい!」

 心の中で祖父に謝りながら、飴を転がすように一口ずつ酒の辛みを味わった。

「ぐいっと、って言ったよな、俺?」
 小声で何やらゼネテスがぼやいていた気がするが、ナッジには聞き取れなかった。

「ゼネテスさん、おいしいです! 大事に飲みますね」
「……ま、ナッジちゃんて、そういうトコあるよな……」

 味わいを共有したことで、ゼネテスに僅かに近付けたような思い違いに浮かれてナッジはくすくすと笑う。
 帰り道での迷いが嘘のように、ゼネテスへの他愛無い質問が舌に乗る。ようやく緩んだナッジの態度に、ゼネテスも快く乗じてくれた。アルノートゥンに来て初めての和やかな時間だった。

「……僕達が酒を知っていれば、もしかしたら」

 それは、会話の狭間の気安い沈黙に落としてしまった言葉だった。いきなり自分はどうしたんだろうか。慌ててナッジは笑う。

「え、あれ? 違うんです。別にジルや皆がどうとかじゃなくて、」
「そうなると、ナッジちゃんのもう一つの仲間の話か」

 凪いだ声に固まる。ごまかしは無駄だった。ナッジは錯覚する、酒に誘われた時から、いや本当はもっと前──アルノートゥンへの道を進む時から、自分の考えは彼に見通されて気遣われていたのではないか。

「い、え……あの、」
「人間には、コーンスの話はできないか?」
「……ゼネテス、さん」
「意地悪な言い方して悪かった。俺に話さなくてもいいさ。
 ただ、ずっとこのままなら……お前さんは潰れちまう」

 ゼネテスは求めも拒みもしない。壁を隔てることすら否定されない。
 ナッジは組んだ指に無意識に爪を立てて、渦巻くものをこらえる。
(今なら。……今、だけなら)
 奇跡の智将ゼネテス。心の中で、その名を辿る。アルノートゥンを拠点に兵を挙げた情報だけで、ジラーク将軍の意図を見抜いてみせた人間。多くの喪失を知っているはずなのに、今ここで笑える強さがある人。見送られた時のやさしく遠い顔が、目の前にある。

「……僕は。ごめんなさい、甘えて、ばかりで……」

 ゼネテスの言う通り、心のもろい部分が酒に溶け込んでいるのだろうか。彼の前でなら、四月前からナッジの奥底に沈んだ錘を打ち明けても良い気がした。話したいと、願っていた。

「……人間達にどう言われようとも、」
 角が淡く熱を持つ。空を見ずとも、月を覆う雲が去ったのだと分かる。この満ちる感覚は、コーンスにしか分からない。それは時折、寂しさの他に昏い選民意識を連れて来る。

「将軍の理想は、間違いなく僕達の希望でした。僕達の苦しみが終わる時が来たんだ、って。
 戦いに慣れていないひとたちばかりでしたけど、勝った時の話しか、しなかったな……」

 アルノートゥンに居た期間は短かったが、同じコーンスと過ごせた時はかけがえなかった。ナッジは目を伏せる。言葉にしてしまうのは、勇気がいる。

「……。認めたく、なかったんですね。きっと」

 また一口、酒を飲み込む。冷たさは喉を通り越すと熱風に変わって身体をあたためた。酒を飲むのは初めてなのに、この感覚を既にナッジは知っていた。
 ジラーク将軍の演説に瞳を輝かせる同胞達が、揃って拳をあげた時の、夢見て涙ぐんだ時の、ふわりとひとの熱が舞い上がる瞬間だった。コーンス達が呷ったのは酒ではなくもっと恐ろしいもので、だからきっと心が溶けることなくいつまでも諦観に張り詰めていたのだ。

「心の底の不安は口に出来なかったんだ。だって、喋ったら、認めてしまうから。
 本音と向き合ったら……運命に絶望してしまうから」
「……運命、ね」

 苦々しい低さに揺らいだ声の物珍しさに思わず顔を上げたが、ゼネテスの瞼は閉ざされていて真意は量れなかった。
 もしかしたら、ありふれた運命への絶望を、彼も抱いたことがあるのだろうか。そうあってほしいとナッジが願っているから、苦渋を見出そうとしただけだろうか。彼への信頼は十分にあるのに顔色を窺ってしまうほど、続けなければいけない言葉に怯んでいた。

「……だ、って。僕達の覚悟にファナティックが応えて、運命を変えてくれる世界なら。
 ……最初から、苦しんでなんていなかった。
 反乱を起こしても人間は変わらないのが、この世界なんだ、って。
 認めたら、それなら……コーンスには、もう……」

 徐々に大きくなる声の震えを止められなくて、唇を引き結んだ。行き止まっているのは、頭ではずっと分かっていたことなのに。

 遠慮がちな椅子の硬い音に気がついた時にはもう、ゆったりとさすられる感触が背中にあった。
 厚いローブ越しでもはっきり分かるゼネテスの掌の大きさと、微かにだけ伝わるぬくもりに、全身のこわばりが取れていく。

「……それでも、お前さんは反乱に参加したんだな。……後悔してるかい?」
「いえ。あれが僕の選択です。変えられなくても、行かなきゃいけなかった」
「そうか。……ナッジは、強いな」

 ゼネテスはいつかの静謐さを保って、ナッジの全ての言葉を受け入れてくれていた。語る相手の広量さに救われる度に、ナッジは悔しくてたまらなくなる。どれだけ旅をしたら、こんなひとになれるんだろう。

「ふふ……強くありたかった。強くなれたと思っていました。……でも、」
 旅の中で得た力で、やるべきことだと信じたから。親友の手を振り払って、選んだ答えだったのに。

「……強さにすがるよりも大事なことが、出来なかった。
 僕達が弱いって、……弱いって、認めるのは、つらいです……」
「……ナッジ」

 視界が揺れる。堰を切ったように苦しみが涙となって地に落ちていく。

「僕達は哀れな滅びゆく種族なんかじゃない。コーンスがいつかは辿り着く運命を変える事が出来るって、……強さを持っているんだって、信じたかった。
 ……でも、同胞達の弱さも迷いも、本当は気付いていたのに。結局、また僕は何も出来ないまま……。
 守りたかった、のに!」

 アハブをはじめ、過去いくつもの街を巻き込み争いの種となった聖光石の力を利用する事が、どういった結果をもたらすのか。ディンガル帝国の兵を何千人も殺した先に何が得られるのか。戦いを手段として理想を成しては人間と同じ愚を繰り返しているだけだ。
 だから、本当はそもそも成功してはいけない戦いだった。
 歴史を尊び、過去に学び、流血を嫌い、平穏を願い、人間の文化を侵さず過ごしてきた種族がそれを分からない訳がなかった。同胞達は分かっていた。
 それでも、コーンス達はアルノートゥンに集い、青ざめた顔をして挙兵の準備に懸命になった。コーンスはこの世界に存在を許されている種族なのだと、人間に──この大地に、訴えたかったから。

「ジルとジラーク将軍のおかげで、多くの同胞達は死なずに済みました。僕も、ヴァンがいたから……。
 でも、同胞達は死んでないだけです。希望を失くして、このままじゃ救われない」

 ナッジの意志を無視して落ちていく涙を袖で拭う。おそるおそる、真横で背中を支えてくれているゼネテスを窺った。彫り深い顔は穏やかさに縁取られて、ナッジを迷わずに見据えている。

「……これだけの想いをお前さんが引き継いで抱えている、それは希望じゃないのかい? 救われているだろう」
「っ、本気で、ゼネテスさんはそう思えるんですか!?」

 ゼネテス自身がその言葉を信じているなら、王宮での処刑を受け入れようとした辻褄が合わない。ゼネテスは王国の希望ではなかったのか。問いただすようにナッジが視線をぶつけても崩せるものはないようだった。

「フフ、思っているさ。……なあ、ナッジ。
 助けられなかったものに引きずられるな。自分が救えたものを認めてやるべきだと、俺は思うぜ」
「……っ、まだ僕には、出来ないです」
「確かに、そう簡単なことじゃない」
 ゼネテスは微かに息を吐いた。
「……そもそも、俺が言えた義理でもないやな」
「どうしてですか?」

 歯痒さと困惑が声に乗る。二度の侵攻戦を防ぎ祖国を守り、祖国の内乱の渦中にいたゼネテスだからこそ、ナッジの側で心を呑み込んでくれることが嬉しかったのだというのに。

「ゼネテスさん、だって、ロストールのことは!
 ……僕には、ファーロス家の……ゼネテスさんの事情は、分かりません。
 でも、戦場でゼネテスさんが最善を尽くしていたのは、一緒に戦った僕が知っています。兵達を一人でも多く生き残らせようと、守ろうとしていました。だからゼネテスさんこそ、」

 続けようとした答えは、節の目立った指のなめらかな仕草によって、明確に遮られた。

「お前さんのそういう真面目な所、好きだぜ。だからついお節介を焼きたくなる。先輩冒険者として、な」

 棘はなくとも強い拒否を感じて、ナッジはそれ以上何も言えなかった。

「……」
「……ナッジ。仲間のことは深刻に考えるなよ。生きていればなんとでもなるし、お前さんが思うよりも他人は自立してる。
 テキトーにでいいんだ。ま、それが出来ない性分なのはよーくわかったけどな」

 背中を暖めてもらいながら取り留めのない話を交わすうちに、先程のゼネテスの慰めがナッジの心に落とし込まれていく。
 そうだ、今の絶望は変わらなくても、生きている。
 ナッジの呼吸が落ち着いたのを見計らって、ゼネテスは立ち上がりボトルを手にテーブルを離れた。柵に身体を預けて杯を煽る姿にむかって、おずおずとナッジは切り出した。

「あの、もしヴァンに会っても今日の話は……」
「言わないさ。ジルにも、言いやしない。お前さんは、それでいいんだな?」

 散々迷惑をかけた上で願うのもおこがましい問いだったが、やはり見通されていたようだ。気が抜けたやらいたたまれないやらで、思わずナッジは机に肘を預けて背中を丸めた。

「何から何まで、……本当に、ありがとうございます。
 ゼネテスさんは、やっぱり優しい人ですね」
「お前さんは、……案外ヴァンちゃんに苦労させてるな」
「いや別に、……。いえ、そうかも、しれません……」

 積み重なる恥ずかしさにどうしたらいいか分からず突っ伏すと欠伸が自然と漏れる。単に眠気に身体が負けているだけかもしれない。呆れた声だけが耳に届く。

「おいおい。部屋に入んな」
「わかり、ました。……ねぇ、ゼネテスさん?
 僕、ゼネテスさんみたいな人も、助けられるようになりたいです。……弱くても、もっと強く……」

 こんな人になりたい。なれないのなら、こんな人を守れるようになりたい。仇討ちを成したあの日から変わらない、ナッジが目指す力の形だった。
 目を閉じると先程まで側にいた偉丈夫の気配は闇に消えて、急速に苦しさも嬉しさもあやふやになっていく。考えないで済むのは、心地良い。

「ナッジ……」
「……すいません、ちょっとだけ……きゅうけい……」


 見る間に話し相手の意識が落ちたのを、ゼネテスはあっけに取られて見下ろしていた。
 角が机にぶつからず視界がしっかりと遮られる角度を見つけて、器用に寝入っているのだから大したものだ。

「おーい、ナッジちゃん?
 ……酒飲みの素養はありそうだが、まだ早かったか。すまんすまん」

 大して罪悪感はないものの、うまくない酔わせ方をしてしまったな、とは思う。
 酒気を吐き出してふと空を仰ぐ。宿に戻った時には厚い雲に覆われていた気がするが、今や月光を遮るものは無くなっていた。

「……けどな、本当は酒に頼らなくたって良いんだぜ。お前さんは子供なんだから」

 ロストール王国でのゼネテスの立場とリューガの変の顛末について、ナッジ自身の何らか──恐らくはコーンスの反乱の最中に見た何かの輪郭を、ナッジが重ねて見ているのは明らかだった。だがゼネテスに言わせてみれば誤った買い被りでしかない。
 どんなに救いたくとも、他人は他人だ。意志を曲げさせる事など出来ないし、ナッジが想像するほどに理想家のつもりはない。手が及ばないものにまで思い詰める姿は、ゼネテスには少し眩しい。だからこそ気にかけてやりたいと思った。
 しかし、お節介はどうやらお互い様だったようだ。込み上げる笑いに頬を緩める。

「大人になったら、……お前さんに助けてもらうのも、いいのかもな。フフ……」

 深く眠りに沈み、夢の世界に旅立つ前には起こしてやろう。今のナッジが見る夢は、うしなわれたものへの無念で満ちているだろうから。
 幼い寝顔を見下ろしながら、ゼネテスは僅かに残る酒を飲み干した。

2022.12.15
猫屋敷でナッジが離脱する時のゼネテスの台詞がとても好き、という気持ちで書きました。
ゼネテスは人の捉え方が優しい。



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