千慮の種

 

 痩せた腕にすがって、幼い子供が泣いている。
「おじいちゃん!」
 ベッドに横たわる祖父に向けて必死に呼びかける小さな背中を、自分はただ見つめている。少年は無力で、最愛の家族がとうとう喪われる現実に悲しむ事しか出来なかった。

「やだ……いやだ、しんじゃやだよ! ぼく、くすり、とりにいくから!
 ううん、おじいちゃんをなおせるまほうを、ぼくがもっとべんきょうしてっ……」
「……やめなさい、ナッジ」
 理性の芯だけがかろうじて残ったような細く低い声が自分の名前を呼ぶ。思わず恋しさのまま腕を伸ばそうとしたが、動く身体はなく浮いた感覚だけが光景を捉えている。

 これは夢だ。とうに気付いているのに、しゃくりあげている自分の過去と同じ気持ちで痩せた祖父を見下ろしている。

「うぅ……ひぐっ……。
 おじいちゃん……いやだよ……」

 震える身体を支えるものは無い。数日前から祖父はベッドの外に出られなくなって、自分が懸命に代わりの手足となって祖父の命を今日まで運んできたのだから、祖父の掌が自分に伸びてこないのは当然だった。分かっているのに、心細くて仕方なかった。

「ナッジ。……明日、……お前は、町に行くんだ」
 ゆっくりと諭された言葉は、以前から交わしていた約束の一つだった。少年は何度も首を横に振る。駄々をこねるのはこれが初めてだ。
 少年は、霊峰トール麓の山林で祖父と二人きりで暮らしてきた。幾度か買い出しに付き添って町に下りた事はあるけれど、角の無い人達が冷たい目で睨んでくるのが怖かった。あんな所に自分が生きる場所があるなんて思えない。ましてや一人で行くなんて。

「まちなんて、いやだよ……ぼくはおじいちゃんといっしょにいる!」
「定めを受け入れなさいと、いつも、……言っているだろう。
 私はもう、お前の傍には、いてやれない。……分かるね」

 自分の我儘は通らない。薄く濁った祖父の瞳に胸が苦しくなる。自分は大粒の涙を溢して、枝のような手を取って頬を寄せる。
「……っ。……お、おじいちゃん、おいていかないで!!」
「ナッジ……」
「まちにいったって、ぼく、ひとりぼっちだよ……」

 恐怖で満たされた少年と、そこで思考が分かたれた。
 祖父を喪いたくなかった。もっと一緒に暮らしていたかった。でも、町で一人になどならなかった。だから。
 少年を慰めようとした自分の意識は、ほんの微かな吐息を捉えて再び祖父に引き寄せられる。鈍い色をした唇はもうほとんど動いていない。泣いている少年は最期の言葉を貰えなかったのだ。なのに、自分はこうして声を耳にする瞬間を待っている。この夢の結末を待っている。託される願いを、待っている。

「私達は、……人間と、ともに……生きてゆくしか、ない。
 愛しいナッジ……お前は、どうか、諦めないでおくれ」


 身体の重さをふいに感じて、ナッジは瞼を開けた。
 胸に渦巻く鈍い痛みが収まるまで、何度か瞬きを繰り返す。上体を起こして感覚と身体が結ばれるのを待つ。

 久しぶりに、祖父の今際を夢に見た。
 いつもならば祖父の記憶はどのような形でも悲しみの最後にナッジに安堵を与えてくれる。けれど、今夜に限っては批難めいた暗示を穿ってしまう。ナッジは無意識に溜め息を漏らした。後ろめたい時に祖父の機微に過敏になってしまう幼さは、成長して無くせたと思っていたのに。

 ナッジは今、水の都アキュリュースに向かう道中にいる。それが冒険者としての旅ならば疚しい謂れはなかった。旅人の護衛の為でなく、手紙を届ける為でもなく、アキュリュースを攻め落とす為にナッジはここにいる。大陸全土に宣戦布告したディンガル帝国の野望を肯定しているこの道中こそが、祖父の夢に翳りを見出す理由だった。
 祖父は戦いが嫌いだった。正確に言えば、戦いに価値を見出していなかった。孫が戦争に助力するなどと聞いたらどれだけの説教が飛んでくるのだろう。けれど自分にだって言い分があって、覚悟があって今に至るのだ。覚醒するにつれて薄れていく幻影に向けて、そっと呼びかける。

(ねえ、おじいちゃん。忘れたわけじゃないんだよ。奪うのは悪いことだと思ってる。
 僕達コーンスは争いに関わっちゃダメなんだよね。……約束は全部覚えてる。それでも、決めたんだ)
 語りかける内に心に沈む後ろめたさは薄れていく。祖父の教えに背く事はとうに承知していたはずだった。
(前に話したでしょ? ヴァンの仇討ちを手伝ってくれた仲間のこと。皆を、守る為なんだ。
 おじいちゃんにガッカリされても、それでも……)

「おはよぉ。……ナッジー?」
 顔を覗き込まれて、ナッジは我に返った。旅の仲間の一人、レルラ=ロントンの青い瞳と視線がかちあって、ようやく思考が現実に浮き上がる。

「……あ。おはようございます」
「やっと返事した!」
「す、すみません。支度しますね」
「いつにもましてぼーっとしてるねぇ。緊張してる?」

 まさか、今に限らず旅の最中もぼんやりしているように見えていたのだろうか。考え込むと周りが見えなくなる癖は子供の頃からのもので、随分と親友にからかわれているのだが、未だに改善の兆しはないらしい。ナッジは慌てて首を横に振ったが、レルラ=ロントンは神妙な顔をしていた。

「ぼく、ナッジがこの作戦に参加するとは思わなかったんだぁ。
 ロストール攻めが始まる前に声をかけたけどダメだったって、ジルが残念がってたから」
「あの時は、迷っていて」
「今度は平気なの? 戦場に行くのは変わらないよ?」

 レルラ=ロントンは吟遊詩人としての好奇心を隠さずに笑う。青年のその態度が不思議と嫌ではなかった。
 戦は苦手だ。その気持ちは変わらない。祖父の嫌悪感に物心つく頃から影響を受けていたし、兵を手にかけるのは苦しい。何より、ナッジが戦場で命を奪えば、業は自身だけに留まらずコーンス族の面目をも傷つけてしまう。

 ナッジは、今度は緩やかに首を振った。
「仲間が傷ついたり、死んじゃったり……その方が許せないって分かったんです。
 戦争が続くなら、手の届く人達は僕自身で守らなきゃいけない」
「で、それって、ぼくも含めてくれてるんだ。嬉しいなぁ」
 大げさに手を広げて喜ぶ姿は純真な子供のようで、彼が戦地にも動じない熟練の冒険者であることを失念してしまいそうになる。
「まだまだ助けられる方が多いですけど」
「助け合うのが楽しく旅する秘訣だよぉ」
「ふふ。そうですね」

「ナッジ! レルラ! 手が止まってる。早く出発しよう!」
 割り込んできた声の方向には、手早く野営跡を処理するジルの姿があった。
 荷造りを急ぐナッジの隣で、レルラ=ロントンは腕を組んで動き回るジルを眺めている。既に出発の準備は済ませていて、その上で思い耽るナッジを気遣ってくれていたのだろう。

「ジルってば、ソワソワしちゃってるね」
「心配なんでしょうね。アンギルダンさん、難しい立場みたいですし」
 朱雀軍がロストールに迫りながらも撤退を強いられ帝都エンシャントに逃げ延びるまで、経緯のあらましは道中ジルから聞いていたが釈然としなかった。名高い老将ですら、あるいは名声が高いからこそなのかもしれないが、一戦の敗北で処遇がこうも変わってしまうとは。

「そうだよぉ。内輪揉めってキレイじゃないよね」
 つまらなそうな声に返す言葉を持てず僅かに肩をすくめたが、ナッジの曖昧な態度で相手も察したようだった。
「あ。そっかぁ、ナッジはアンギルダンと会ったこと無いんだっけ」
「ジルから噂は聞いてますけど」
「ジラークにも?」
 同族でもある白虎将軍の名はつい意識してしまう。頷くと、レルラ=ロントンは僅かに眉根を寄せた。

「ふうん、そっかぁ」
「……?」
「じゃ、新しい出会いが楽しみだね! アキュリュースまでもうちょっとがんばろ~!」
 先程の違和感は既になく、小柄な青年は明るい声と大きな赤い帽子を揺らしてジルの元に走り去っていく。首を傾げつつ、ようやく荷造りを済ませてナッジは立ち上がった。

(……。ねえ、おじいちゃん。
 僕、これから戦いに向かうよ。……人を殺しに、行くよ)
 

 行程は順調で、日の暮れぬ内に無事アキュリュースの諜報員と接触出来たまでは良かった。だが、ジルとアンギルダンの再会間もなく行われた白虎将軍との軍議は、その安堵を冷ますのには十分すぎる時間だった。
 用意された天幕で待機していたナッジ達の元に、険しい顔をしたジルとアンギルダンが戻って来た時、帝国の情勢に立ち込める暗雲を初めて肌で知ったのだった。
 作戦への陳言が難しく動けないという現在の状況と、ジルによる山盛りの愚痴を共有した後に天幕を出たナッジは、ほどなく白虎軍兵士に声をかけられた。

「お待ちください。ジラーク将軍がお呼びです」
「あの、……僕、ですか?」
 思わずアンギルダンがいる天幕の内を視線で示したが、兵士に首を振られる。戸惑いのまま、ナッジは兵士の案内に従い本陣へと足を運んだ。


「……し、失礼します」
 哨兵の視線を感じながら一際大きな天幕に踏み入ったナッジは、柔らかな魔力の感覚に息を呑んだ。
 アキュリュース周辺が描かれた地形図の傍に、初老の男が佇んでいる。話に違わず、伸ばした背筋も表情も銀のように硬いのに、額に生えた長角が纏う魔力は、まるで符牒を示そうとするように和気を伝えてくる。
 思わず側に控える兵士を盗み見るが、将軍の変化には気付いていないようで険しい顔のまま職務を全うしている。
(僕に何を求めてるんだろう。角……、応じた方が良い、のかな)
 内心の困惑が形になる前に、将軍が口を開いた。

「ナッジ君だね」
 低く明瞭な声に心臓が跳ねた。ナッジの困惑はますます大きくなる。
「えっ、どうして僕の名前を?」
「君のお祖父様には……本当に、世話になった。赤子の君とは、顔を合わせた事もあるのだよ。
 見違えるようになったが、備わる魔力で判別はつく」
「そう……だったんですか」

 ジラークは眉一つ動かさないが、角が見せている表情は別だ。兵の目がある中での最大限の親愛に、不慣れながらナッジも応じた。祖父の痕跡をこうして辿れたのは嬉しいはずなのに、胸に居座る不明瞭なわだかまりは消えなかった。
「奇妙な縁もあるものだな。アンギルダン卿が君を連れているとは。あれには勿体無い」
 ジラークの突き放した口調にナッジは眉をひそめた。ジルとアンギルダンに相対する将軍の姿が想像に容易く、苦い感覚が漏れる。
「そんな言い方……目的は一緒なのに」
「敗将の意見は不要だ。今のアンギルダン卿は将ですらないが。
 ……だが、ナッジ君。君は別だ」

 含めるように柔らぐ音はむしろナッジに不満を抱かせた。仲間を差し置いて、縁故を理由に特別扱いされても少しも嬉しくない。
「僕だって、ただの一兵です!」
「君は、同胞だ」

 聞き慣れないはずの、ナッジを形容するに相応しくないはずの単語にぴりと頭痛を覚えた。ナッジに沈むわだかまりが蠢き出す。祖父の記憶が脳裏にちらつく。
 ──ジラーク。時折悲しげに祖父が溢していた単語。そうだ。将軍の名前に覚えはあったはずだ。時間をかけてしたためていた手紙。幼い心は気にも留めていなかった。ずっと忘れていた。
 思わぬ想起に、知らず手に汗が滲む。なんとか過去の記憶を振り払おうと身体に力を入れようとする。
(この人は、もしかして)

「……アキュリュースを……攻めるなら、アンギルダンさんと協力するべきです」
 ナッジがなんとか吐き出した言葉は、将軍の何をも波立たせなかった。
「不要だ。作戦指揮は私に一任されている。不穏分子の意見は軍に混乱を招く」
「アンギルダンさんは信用出来ないんですか? でも、兵の被害を減らす為に、」
「優先するべきは。迅速なアキュリュース接収だ」

 皺の刻まれた、しかし鋭さを失わない老将の瞳がナッジを見据えている。取り付く島が無い。なおも言い募ろうとした途端、角の共鳴する感覚が高まる。思考を乱されてナッジは身じろいだ。
「っ、しょ、将軍……!」
「肩の力を抜きたまえ、ナッジ君。私は君と少し話をしたいだけだ」
「……おじいちゃんに、恩があるから?」
「違う。こうして時間を作っているのは、君が同胞だからだ」

 ナッジがコーンス族だからここに立つのを許しているのであって、作戦の論議は求めていない。ナッジにかけられる友好的な言葉の裏に冷淡さをひしと感じる。ナッジは息苦しくなって胸を抑えた。
 この人はきっと、帝国の将軍である以上にまずコーンス族として在るのだ。ナッジは信じられなかった。将軍が同族とそれ以外を区別するほど種族の自尊心を持つならば尚更、アキュリュースを侵攻する重さにもアンギルダンとの協調の努力にも、どうしてこんなに冷ややかでいるのだろう。
 将軍は祖父を敬愛しているようなのに、平穏を願う祖父の信念は知らなかったのだろうか。

「……どうして。おじいちゃんは、奪っても欲しい物は決して手に入らないって、言ってたのに……」
「ふ。清貧の心を尊ぶ人であったな、先生は……」
 打ちひしがれたナッジの声にジラークは苦笑を漏らす。予想外の反応にナッジは顔を上げた。

(そっか。おじいちゃん……先生、だったんだもんね。
 将軍は、おじいちゃんの講義を聞いたりしたこと、あるのかな?)
 祖父はディンガル帝国のアカデミーで教授をしていたらしい。アカデミーより孫の方が大事だと隠遁を選び慎ましく生活している祖父しかナッジは知らなかった。思わぬ形で将軍の中にも祖父が大きく根付いているのだと気付かされる。

 ほどなくジラークは鋭い表情を取り戻してナッジを見据えた。
「元々奪ったのは彼奴らではないか。我らは取り戻すだけのこと」
「そんな考え方、……虚しい、です」
 白虎軍の兵士に不審がられぬように主語を曖昧に濁された敵意を、ナッジは正しく諒解する。分かるからこそ、頷けない。
「虚しい、か。現状を受け入れて搾取されるままでは、我らは滅びるだけだ。それで良いと、君は思うかね?」

 コーンス族の現状とアキュリュース侵攻に何の関連があるのかは探れないが、問い返すこともできなかった。問いに滲んだ痛みに、口の中が乾いていく。
 コーンスが数を減らすのは、街中に同族を見かけないのは、人間達に奇異の目で見られるのは。良し悪しなど判断しようもない、摂理として形作られた受け入れるべきものだと思っていた。

「……分かりません。皆が危ない時には、守りたい。けれど……」
「守るとは曖昧な言葉だな。我らは、生命と尊厳の両方が脅かされている。
 君は、何を守るというのだ?」
「……。僕は……」

 例えば一人を指すのなら、何もかもありのままを守りたいと、ナッジは迷いなく答えられただろう。大切な人が自分の意志で道を進めるように、命も信念も手折らせはしないと、親友を守れなかった後悔を二度と繰り返さないと、はっきりと伝えられる。
 それなのに、手の届かない場所で傷付く同族達に対しては、胸を張れる言葉は一つも出てこない。

「……すまないな。同胞を、それも恩師の孫を悩ませる趣味はない」
 黙り込むナッジを置いて、ジラークは壁にかかった獅子の紋章に視線を向けた。
「無論、彼奴らへの怨讐で戦う愚は犯しておらぬよ」
「……」

「今、ディンガル帝国は、大陸統一を目指している。
 ……ネメア様は、多くは語ってくださらない。
 だが、私を将軍の座に誘う際、ネメア様はこう仰ったのだ」
 ジラークの瞳にはっきりと敬愛の色が映るのを目にして、ナッジは微かにほっと息を吐いた。
「運命に打ち勝つ為にお前の知識が必要だ、と……。
 お前もまた縛られる定めがあるのならば、私が手を貸せるはずだ、と」

「……ネメアさんの、運命」
「ネメア様に告げられた予言は知っていた。あの方が予言に呑まれてしまうのは……あまりにも惜しいと思い、誘いを受けた」
 駆け出し冒険者だった頃、角目当ての冒険者に襲われたナッジを救ってくれたのがネメアとダークエルフの女性だった。間近で見る勇者ネメアは、悲劇が避けて通りそうなほどに堂々としていて、自信に満ちていて、優しかった。そんな悠然としているように見えたネメアですら覆せない何かがあって、眼前の老将はそれを知っている。ナッジの考えにも及ばなかった話だ。

「そして同時に考えた……私の定めは何かと。
 私が、……我々が打破せねばならないのは……」

 老将は一歩距離を詰める。口は開かれず音はなく、だがナッジの耳は正しく将軍の言葉を聞き取った。

「我らコーンス絶滅の定めだ」

「っ、ジラーク将軍……っ」
 魔力が意思となり、角が意思の架け橋となる。ジラークの額を中心にして響く力が、ナッジの内側を震わせる。コーンス族だけに許された対話の方法で、将軍は低く語りかけてくる。

「ナッジ君、分かるだろう? つい先頃まで人間の浅ましさが帝都に蔓延っていたのだぞ。
 賢帝だったバロルは変わり果ててしまった。人間は、……いつもそうだ。
 我らコーンスは拓かれていたはずの帝国の領土ですら行き場を無くし、弾圧された。
 ……皆は何もしなかった。滅びを受け入れようとしていた……先生もだ!」
 角を通じて、霜のような出で立ちの下に流れる苛立ちと悲嘆が、熱くナッジに流れ込んでくる。訳もわからず目尻に涙が滲んだ。
「おじいちゃん、も……」
「だが、それでは、駄目なのだ。我々には希望が必要だ。
 かつて人間以外を否定したこのディンガルによって、全ての種族と全ての国が併呑される……その意味が分かるかね」

 ジラークの焦燥がうねり、それから自制と興奮がないまぜになって、使命感として灰色に渦巻いている。
(こ、この人は。最初から、コーンスの為に戦ってるんだ)
 政略的な意図も、その為に人間の兵士を率い大陸を踏み荒らす酷薄さも、ナッジには到底受け入れ難く、それでもジラークの強い覚悟だけはひしと伝わる。唇を引き結び、力に呑まれそうになりながらもなんとか魔力の言葉を振り絞った。

「だから、……全てに戦いを挑むんですか。ネメアさんと共に……」
「ネメア様によって大陸統一が成されれば、コーンスにとって黄金の価値があるのだ。いや、黄金はそれだけではない……っ」
 ジラークの固い使命感がふと波立ち、違和感にナッジが繋がる前に感情が平静に塗り潰される。対話が切られる。

 角の共鳴が終わり、耐え切れずナッジはふらついて膝をついた。落ちてきた冷徹な声は、空気を震わせて生じた音だった。
「引き留めて悪かったね、ナッジ君」
「……い、え……」
 息を整えようと身体を丸めているナッジを一瞥すると、ジラークは背を向けた。
「君は随分と、今回の作戦に消極的なようだ」
「……僕は。おじいちゃんを信じてます。もちろん、ネメアさんの事は好きです。でも。
 出来るなら、奪って変えていくような選択はしたくない。甘いのかも、しれませんけど……」

 ジラークの信念自体は尊敬出来るとナッジは思う。例え棘に包まれていようと、種族を救おうとする視野の広さと使命感は確実に胸の片隅を熱くさせる。だからといって、他者を踏みつける棘に目を瞑ってしまうのは、ナッジの目指す強さではない。
 私欲に溺れず、力で守る意味を見つめ続けながら旅をしていく。自分で決めたその道は、間違っているとは思わなかった。

「……先生は、君を大切に育てたのだね」
 その声に、失望だけでなく懐古する響きが混ざっているように聞こえたのは、ただの気のせいなのかもしれない。それでも錯覚に任せてナッジは微笑んだ。
「はい。僕は、おじいちゃんが大好きです」
「そうか……」
 噛み含めるような短い相槌だったが、ジラークの後ろ姿から感情を読み取るのはナッジには難しかった。

「まあ良い。君が帝国に与する以上は、我らは同志だ。是も非も関係あるまい。
 付く将は……もう少し考慮すべきだと思うがね。
 ……時間だ」
 立ち上がった所を見計らって、控えていた兵士の一人に肩を叩かれた。ジル達のいる天幕まで送り届けてくれるらしい。
 ナッジはジラークの背中に向けて深々と礼をした。
「……話せて良かったです、ジラーク将軍」
「良い戦果を祈る。君ならば、白虎軍への移籍はいつでも歓迎しよう」


 戻ってきたナッジに一番に飛びついたのはジルだった。顔を青くしてナッジの手を握るリーダーの姿に、張り詰めていた気持ちがみるみる弛んでいく。
「あ、ナッジ! 呼び出されたって聞いて、心配したよ。大丈夫? なんか怒られた?」
「ううん、さっきのアンギルダンさんのことは関係なかったよ」
「よかった。じゃ、個人的な話か。実はコーンス同士仲良くなりたかった、とか」

 当たらずとも遠からずの予想に、ナッジは苦笑するしかない。仲間には申し訳無いが、詳しく話す気にはなれなかった。
「えーと、……まぁ、そんな感じだね。
 昔、僕のおじいちゃんに良くしてもらったんだって」
「ほお! 思わぬ縁もあるものじゃな。ならばもう少しわしらに胸襟を開いてもよかろうにな」

 ジラークの様子を思えば先程は相当無下に扱われていただろうに、アンギルダンはからりとした態度で笑っている。アンギルダンの隣で弦を弾いていたレルラ=ロントンは、何故かナッジをちらと見遣った。
「ぼく達を蚊帳の外にしたいみたいだねぇ。それってあんまり良い流れじゃないなぁ」
 大柄の老将と小柄な青年の陽気な声に、ジルが口を尖らせる。
「結局さ、全部ベルゼーヴァのせいなんだろう! やりにくいなあ」
「まぁ、せめて心身を万全に整えておくことじゃな。どう転んでも自分の身体は嘘をつかんよ」
「さっすが、ディンガルの生き字引が言うと当たり前のこともサマになるなぁ」
「……万全にするなら、アンギルダンもレルラも深酒はやめてほしいんだけど」
「悲しいことに、白虎軍には深酒するほど酒の用意がないのじゃ。つまらんわ」
「え~、持ってきたお酒もう無いのに~」
「じゃあ、しばらく二日酔いの赤い人達は見れないなー! はぁ、安心した」

 ころころと表情が変わるジルとそれを見守る二人の賑やかな光景を、ナッジは穏やかな心地のまま眺めていた。懸念材料が山程積まれていても、今日を楽しみ未知の明日を進む為に明るく生きるのが冒険者の仲間達だった。テラネを出て初めて知れた、煌めく精神だった。
 
 簡素な携行食をとった後就寝まで思い思いに過ごす時間は、陣営地でも変わらない。ジルは苛立ちを発散してくると剣を振りに行き、アンギルダンは朱雀軍の兵士を励ましに向かった。
 気分が晴れないままのナッジは、悩んだ末に鍛錬をしようと槍を手に取り柄を握る。刃に曇りがないか見上げていると、レルラ=ロントンに声をかけられた。

「ぼく、出てくるから。中で訓練してだいじょうぶだよ」
「良いんですか?」
「だって、ぼーっとしている今のナッジが外で槍を振り回してたらさ、怪我しそうだもんね」
「え、ええっ」

 ジラークとの会話を追求されないようにナッジなりに気を付けていたつもりだったのだが、結局繕えていなかったらしい。今朝と同じ指摘に自然と顔が熱くなった。

「あはは、じょーだんじょーだん。
 ……真面目なのってさ、ぼくはね、キレイだなって思うよ」
 じゃね、と楽器を片手に出て行くレルラ=ロントンを見送ってから、ナッジは小さく感謝の言葉を口にした。
 

 一人きりになったナッジは、槍を握り締め穂先を下ろす構えを取った。大きく深呼吸をしてから、刃を振り上げる。重力の助けを借りて力強く地面に突き刺そうとして、接地の寸前で止める。
 無心で身体を動かしながら、ナッジは思考に集中する。将軍との会話を反芻する。

 ナッジは今まで、祖父の教えが全て正しいと思っていた。けれど、祖父を知り深い情すら垣間見せる白虎将軍は、祖父とは違う道を進んでいる。将軍だけではない、ナッジもまた祖父の教えに背いて戦乱を選んでしまった。
 ジラーク将軍の救済の使命感は間違いなく本物だったから、祖父の教えと天秤にかけてナッジの心をざわめかせている。
(帝国による統一……そうまでしないと、僕達は生きていけないのかな。本当に……?)
 今朝の夢で祖父が紡いだ声なき願いが頭によぎる。幼きナッジには分からなかったコーンス族の言葉を今再び聞いた意味を、偶然とは片付けたくなかった。
 ジラークの目指す未来図はナッジには少し怖かった。併呑された帝国で、果たして人間とコーンスは共に生きていけるのだろうか。

(僕が、魔王バロルの事を分かってないから、なのかな)
 思えば、エンシャントが暗雲に包まれていた時代と重なるように、テラネで一段と住民から避けられていたことはあった。あの頃ヴァンがいなければ、自分はテラネからも追い出されていたかもしれない。だが結局は、強い悪意が投げかけられる他は凪いだ日々に収まっていた。それはエンシャントと比べれば平穏に他ならなかったはずだ。
 ジラーク将軍がバロル統治下の帝都に住んでいたのなら、ナッジが想像できない程の絶望を味わったのかもしれなかった。

(将軍が決めた答えの方が、正しいのかな?
 僕にはまだ、決められない。……分からない)

 親友の仇を助け、奪うよりも大切な道があると信じたばかりなのに、また大きな壁にぶつかってしまった。
 今は仲間達の道と白虎将軍の道がかろうじて重なっているが、所属に囚われない自由な探究心と、皇帝とコーンス族だけに向けられた正義感は、いつまで道を同じくできるだろうか。
 どうすれば自分は、大切と思うものを真に守れるだろうか。

(……悩むことをやめるな、だよね。おじいちゃん)
 答えは見えないが、見えないことに自棄を起こしてしまえばそれまでだ。不老も短命も与えられなかったコーンスの寿命の意味を、祖父はナッジに説いていた。

 身体を休めるべき闇の時間にこそ我らの角が満ち思考が明晰になるのは、我らが理性の種族だから。考え続けなければ、コーンスとして生まれた意味がない。
 ナッジは槍を振るう手を止めた。空気を求めて荒く呼吸を繰り返す。思考を置いてひとりでに動かした身体は、暴力を模した運動に快い悲鳴を上げていた。
「……もっと、僕は強くなる」
 喜ぶ身体が惑う意識と結びつくのを待ってから、ナッジは静かに瞼を閉じた。生まれた闇に身を委ね、内なる混迷の海に足を浸す。
 
 白虎軍が美しき水の都市を脅かす日は、間近に迫っていた。


2023.06.20
祖父を看取るナッジを妄想したい、というだけだったのですが書いていくうちに色々詰め込んでしまいました。
角の共鳴やレルラの立ち位置なんかに、かなり夢見ている感が出ています。
ナッジとジラークは本編前には面識はなかったのではと、なんとなく思っています。



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