7月4日
ヴァンは生まれて初めて、冴えない誕生日を味わった。
祝いの席に嫌いな食べ物が出たのではない。例年通り母が美味しい食事を作り、腹の調子も良く何回もお代わりをした。悪戯が失敗したのでもない。神官に仕掛けた悪戯は見事に成功して、蛙を放りながら喚き散らす姿は愉快だった。両親が自宅に招いた大人達に挨拶するのは面倒だったが、まあ慣れたもので気分を損ねるほどでもない。
ヴァンの誕生日はヴァンの思い通りに行く幸せな日だったのに、今年は一つだけうまく行かなかった。
新しく出来た友達を家に招けなかった。友達と一緒に誕生会を楽しめなかったのだ。
しかし、ヴァンはそこで落ち込む性格ではなかった。招けないのなら、自分が行って祝ってもらえばいいだけのことだ。ヴァンは日が明けて一番に家を飛び出して、こっそりと家から食事もくすねて、町外れの森までやってきたのだった。
樹上に造られた簡易な作りの小屋を見上げて大声で呼びかけると、さほど待たずにお目当ての茶髪の少年が顔を覗かせた。
「やあ、ヴァン、おめでとう!」
期待通りの挨拶だ。浮き立つ心地で急いで梯子を登り切るとヴァンは家に飛び込んで、友達の腕を取って勢いよく振った。
「よお、ナッジ! 大人になった俺が来たぜ!」
「初めて会った時から変わってないよ」
少年は腕を振られるに任せたまま笑っている。
こいつとはまだ数ヶ月の付き合いだから、自分の変化が分からないのも仕方ない。ヴァンは新しい友達、実を言えば初めての友達でもあるナッジの言葉を素直に受け止めておいた。
相手の腕を離してベッドに腰掛け一息つくと、昨日の不満がじわりと浮かんでくる。
「……俺、ナッジを家に呼ぶの楽しみにしてたのによお」
「仕方ないよ。前々からヴァンのおじさんに言われてたし」
「言われてたからって、別に、お前が聞く必要ないけどな」
肩をすぼめるナッジに微かな苛立ちが沸いたが、鼻を鳴らしてごまかした。
ヴァンの父は、ナッジを嫌っている。母もそうだ。きっかけはヴァンが初めてナッジと出会った日の夜まで遡る。雑談の種の一つとして、新しい遊び相手を両親に報告したまでは問題無かった。どんな相手かと聞く両親の顔は緊張していたけど、そんなのはいつものことだったし空気は和やかだったはずだ。
──すげえんだぜ! あいつ、おでこに角がついててさ。コーンス族って言うらしいけど、俺さ、角生えてる人間って初めて見た!
ヴァンがそう言った途端、母は青ざめて、父は絶句した。それからの両親は、ヴァンの初めての友達に対して今日に至るまでひたすらに頑なだった。
今回の誕生日だって、ナッジを家に呼びたいと言ったら、角つきを家に入れるなんておぞましい、孤児を家に入れたら恥をかく、だとか父に言われたのだ。あいつは結構マナーにうるさいから大丈夫だぜ、なんて教えたのだが全く話を聞いてくれなくて、結局ナッジを家に呼ぶのは諦めざるを得なかった。
誕生日には両親はなんでも願いを叶えてくれるから、強く説得すれば要望は通ったかもしれない。けれど、両親も気分良く祝いの席にいないと意味がないのも分かっていたから押し通しはしなかった。
自分の誕生日は、ヴァンが良い気分になる為のものだったが、同時に両親の幸せあってのものなのだ。ヴァンは両親が好きだった。
気持ちを切り替えようと、ヴァンは持ってきたバスケットを掲げた。
「……見ろよ、ナッジ! 昨日は牛肉が出たんだぜ! トムのじじいからもらったって!
ほら、これ、余ったやつ!」
開いたバスケットには、こんがりと火の通った分厚い肉が切れ込みの入った黒パンに挟まれて、籠めいっぱいに詰められている。ナッジは瞳を一瞬輝かせたが、すぐに目を伏せてしまった。
「いや、余ったというか。ヴァンのおばさんがあえて残してたんじゃないの?」
「どうせ俺が食べるんだから持ってきてもいいだろ。ほら、食おうぜ」
ヴァンは肉の挟まれたパンを一切れ手に取ってナッジの方に押し付けた。ナッジは眉間を寄せてそれを見つめている。
「だって、これは」
「なんだよ! 早くしろって」
「……分かったよ。ありがとう、もらうね」
ようやくナッジはパンを受け取りかじりつく。咀嚼をするうちに目尻を下げる姿を見ていたら、先程までのささくれた気持ちがすっかり消えてしまった。
ヴァンは祝いの名残を口に放り込みながら、昨日の出来事をナッジに話し続けた。ナッジは節々で笑ったり冷静に突っ込みを入れたりして合いの手を入れてくる。ヴァンの話を、盲従したり馬鹿にしたりしない、ありのままの温度で聞き届ける人に出会ったのは初めてだった。ナッジと話しているとヴァンは楽しくて仕方なかった。この友達と日常をなんでも共有したかった。
ふと素朴な疑問がヴァンの口をついて出たのも、そんな気持ちの表れだった。
「なあ、なあ! 次はさ、お前のお祝いもしなきゃな!
ナッジ、誕生日教えろよ。もう過ぎたのか?」
「細かい日付は分からないんだ。おじいちゃんも僕の親から聞いてないって」
予想だにしない答えにヴァンは目を丸くした。部屋の奥に立てかけられている長槍は、誕生祝いに祖父から貰ったと以前話していたではなかったか。
「マジかよ。でも、じいちゃんとはお祝いしてたって言ってたじゃんか」
「うん。おじいちゃんとはね、蟹の星辰が見える頃にお祝いしてたよ。
僕には巨蟹宮の祝福があるって言われた」
「そんなの分かるのかよ?」
そういえば、教会の神官も礼拝者相手に星辰の祝福がどうとか言っていた気がする。ナッジは祖父を誇るように堂々と頷いた。
「精霊力が強くなれば、ひとの祝福が見えたりするんだって。……僕にはまださっぱりだけど」
「ふうん……」
ヴァンは指を折り曲げながら友達の誕生した日の見当をつける。
星見の知識はヴァンにも無縁のものではない。霊峰トールへの入山客の案内も引き受けるアユテラン家の跡取りとしては、空の地図とも呼べる星座の知識は、将来的には頭に入れておかなければならないものだ。
幼いヴァンはまだまだ穴抜けの知識しか無かったが、幸い巨蟹座の巡りは時間を要さず思い出せた。
「じゃあ、六月か七月のあたりだな」
そのあたりなら、トールへの巡礼者が多くなって宿が忙しくなるから、両親の目を盗むのも楽だろう。こいつを連れ回すのには丁度いい時期だ。
計画を組み立てつつもなんだか釈然としない。誕生日は心待ちにする時間も含めて特別なのに、あやふやな範囲で曖昧にお祝いするのはヴァンの性に合わない。
「ちぇっ。日付が無しってのはめんどくせぇな」
「め、めんどくさいって言われてもなぁ。今まで困らなかったし」
何故そこを気にするのか分からない、とばかりにナッジは眉を下げている。
「だってよナッジ、」
反論しようとして名前を呼んだ途端、ヴァンの頭に閃光が走った。
「ナッジ、……無し? そうか、なしだ!」
これだ。これしかない。閃いたアイデアに知らず声が大きくなる。
「い、いきなり何なの?」
「決めた! お前の誕生日、7月4日だ!」
恐るべき発明だと満面の笑みが溢れるヴァンを見て、あからさまにナッジは引いていた。失礼なやつだ。
「……理由は聞いた方がいいかい?」
「ぞんぶんに聞けよ」
「はぁ。なんで7月4日にしたの? 確かにその日なら、巨蟹の星が見える時期だけど」
ヴァンは悠然と胸を張った。完璧な理論を説明する自信があった。
「7と4で、ななし、なし、つまりナッジだ! ウププ、やべえな俺」
「……日付と僕の名前をかけたってこと?」
「天才だろ!」
どうだ、とばかりに両手を広げて歓声を待ったが、期待した反応は返ってこない。
「ギャグで誕生日を決めるのは、天才じゃなくてばかでしょ」
ナッジに呆れた顔で見つめられて、ヴァンは固まった。
何故ナッジは喜ばないのだろうか。自分の名前にちなんだ日が誕生日なんて、それを二人で祝えるだなんて、涙を流して喜ばれてもおかしくない偉業ではないか。
「なんだよっ! 祝う日決めるのが悪いのかよ?」
「そうじゃないけど」
「なあ、ちゃんと日にち決めたらさ、俺が祝ってやる。今年も来年もずっとだぞ!」
土の色をした瞳がみるみる丸くなって、瞬きながら揺らめいている。嫌だとナッジが即答しないのなら、やはり自分の思いつきは間違っていないのだ。
「それはっ、えと、うれしいけどさ、」
煮え切らない躊躇いをこれ以上聞いていても話が進まない。ヴァンは顔を近づけた。勢い余って角の先端に額がぶつかって、こつんと気の抜ける音が響く。
「うわっ」
「ちょ、ちょっと!」
予想外の事故にナッジは気の抜けたようにおろおろとしている。
今しかないと、そう思った。ナッジの「だけど」に付き合っていたら日が暮れてしまう。
ヴァンの直感は、自らの名案を押し切れる瞬間を感じとる程度には鋭かった。
額をさすりながらヴァンは思い切り笑ってみせた。
「なあ、ナッジ! お前の誕生日にさ、探検に行こうぜ!
俺さ、おふくろに山盛りに弁当作ってもらう! 半分こだぞ!」
自分の誕生日にナッジと遊べなかった分、ナッジの誕生日には一緒に全力で遊びたかった。友達同士で特別な日を過ごすなんて初めての経験で、考えるだけで駆け出したくてたまらなくなる。
「ヴァン……」
しばし待たされた後に息をつく音が聞こえて、ヴァンはうきうきと拳を握った。ナッジの溜め息は、ヴァンの後ろをついてくる為の準備運動のようなものだととっくに分かっていた。
「分かったよ。7月4日、だね。まったく、ヴァンって強引なんだだから」
ナッジの口元がにやけているのを、ヴァンは見逃さなかった。
*
雲一つない夜空に光が瞬いている。多彩に輝く星々は、あのブサイクな猫魔人に言われせば神々の住まいであり天空神の庭なのだそうだ。いつかジルと一緒に聞いた神話は、既にヴァンの頭には半分も残っていなかった。
ヴァンにとって星空は方位の頼り以上も以下も権威を持たず、ただ一つ、今の時期に赤々と見える星座だけが特別な意味を持っている。
ヴァンは寝転んだまま、よく見知った巨蟹の星座を捕まえようと手を伸ばす。腕が夜空に伸び切る前に、鋭い痛みが肩を襲った。
「う、っつう……」
反射的に腕は空から遠ざかった。きつく目を瞑って深呼吸を繰り返す。やり過ごす時間の予測をつけるのも慣れたものだ。頭の中で数えた通りに、痛みの波は引いていく。
「ヴァン! ちょっと、大丈夫?」
聞き馴染んだ穏やかな声にヴァンは目を開けた。額に角を生やした茶髪の青年が、身をかがめてこちらを覗き込んでいる。
──見舞いに来てくれたんだな、待ってたんだぜ。
口を開きかけて、危うく間際で現実に立ち返った。ここは自宅のベッドではなくロセンの町外れだ。
「ん? ちょっと痛かったけど、平気だ」
「やっぱり、まだ完治してないじゃないか。ヴァン、」
「いいんだって。言ったろ? お前らと旅したいって」
やっと重体から回復して旅を始めたばかりだというのに、下手な配慮で故郷に逆戻りしてはたまらない。差し伸ばされた手に応じてヴァンは立ち上がる。おそるおそる柔軟をしたが、再び痛みが襲ってくることはなかった。代弁をするかのように、ナッジがほっと息をついていた。
「それにしたって、急ぐ必要はないじゃない。
起き上がれたのがつい一月前だったんでしょ? 後遺症とかさ……」
「だってさ、約束したろ」
「どれのこと?」
手当をしようとするナッジの腕を払い、心配そうな顔を睨みつけた。
「はあ? お前の誕生日に決まってんだろ!
お前のじいちゃんよりもっと派手に、俺が毎年祝ってやるって約束!
その為にさ、俺頑張って怪我治したんだからな」
首を傾げる親友との温度差を埋めたくてヴァンは捲し立てる。初めての友達と出会った年、ナッジの誕生日を決めた時に誓った大事な約束を、刺されて意識が朦朧としたぐらいで破るなんて、ヴァンの誇りにかけてあってはならなかったのだ。とはいえ、嫌いな神官による説教と治療を我慢して受けたり、苦痛に呻きながら訓練を重ねたり、決して簡単な道ではなかったのだが。
「そっか、僕の……。いつもより無茶してるとは思ってたけど」
ようやく合点がいったらしいナッジは、赤らんでいく顔の理由を作るかのように頬をかいている。
「ねえ、ヴァンってさ、結構すごいよね」
「にひひ。そうだろ」
「でも、……それってさ、派手にとは約束してなかったよ」
喉奥で笑いをこらえているナッジの腹を小突いた。てっきり忘れているのだと思っていたのに。
「なんだよ、しらばっくれやがって。覚えてんじゃねえか」
「一応ね。ヴァンより記憶力は自信あるんだ」
「なんだとお!?」
「毎年気にしてると思ってなかったから……。
ねえ、ヴァン。今からでも良いなら、付き合うよ」
嫌と言っても引きずり回すつもりだったが、乗り気ならば話は早い。去年のようにヴァンが見つけた果実の群生地を教えたり、一昨年のようにお守りを渡すのも悪くはないが、今年は単純にいこうと決めていた。
「よっしゃ! メシ食いに行くか! ロセンの食堂が建て直されたばっかだってよ!
メニューはどういう路線? 試食どうぞ、なんてな。ププッ」
「へー。ロセンと食堂でそれぞれかけてるんだ」
肩を落としたナッジを横目に、ヴァンは大きく伸びをした。
「来年はテラネに帰ってるかもしんねえし、色々珍しい物食おうぜ」
「そう、だよね。ねえ、ヴァン」
「な、……んだよ」
いつのまにかナッジはやさしさと決意の狭間のような仄かな微笑みを浮かべている。腕の痛みに似た一瞬の重たい違和感がよぎって、ヴァンの喉を詰まらせた。再会してから見せるようになったややこしい笑い方は意味を見通すのが難しくて、あまり好きではなかった。
「僕、本当は、テラネの外に憧れてたのかもしれない」
告白は滑らかに耳に落ちていく。一月前、意識が回復して早々にナッジの不在を知らされて、ヴァンの頭に一番に浮かんだのは、やっぱり、という納得だった。親友のことだ、ヴァンに先んじて落とし前をつけさせる為に自称勇者の変人を追ったのだろうと信じていた。信じていたけれど、本当は、ほんの少しだけ不安だった。
「テラネに戻りたくないのかよ?」
「ううん、そういう訳じゃない。ただ、なんというか……。
ヴァンと一緒に旅していられるのが、すごく嬉しいんだ」
ナッジは頭の中の順路を辿るかのように慎重に言葉を運んでいた。親友のいつもの癖だ。道中で削がれたものに焦れる時もあるけれど、それでも最後に形作られた言葉に嘘は混じらないのは分かってる。よく見知った隙だらけの緩んだ笑顔に安堵する自分もまた、同じ顔をしているかもしれなかった。
「まあ、俺がいないとな」
「そうだよ。ヴァンが元気じゃないとさ」
「フフン。期待に応える男だな、俺は!」
「うん。そう思う。今日だけはね」
「何をおお!? いつもだろ!」
「ふふふっ、そうだといいんだけどね」
まったく生意気な奴だ。大げさに身体を背け、町中に戻ろうと早足を始めたヴァンの後ろから、規則正しい足音が聞こえてくる。
この順番だ、とヴァンは思う。いつでも自分が先で、すぐ後ろにいるナッジを引っ張ってやるのだ。テラネにいても旅の最中でも、二人の距離は変わらないはずだ。こうしていれば、楽しいものを無尽蔵に親友と一緒に見出して分かち合っていける。
「……ありがとう、ヴァン」
靴音に紛れて、小さな呟きが聞こえる。ヴァンは振り返ってナッジの腕を握った。
「へへっ。ナッジ、誕生日おめでとう!」
2023.07.04
あたりまえの特別を決めた