森の外 1.出会い



 近頃、テラネの町ではある噂が広まっている。
 ──日が暮れると門近くの川辺に幽霊が現れる。
 釣りから帰ったとある親子が知人にこぼした他愛のない目撃談は、娯楽に飢えた子供達の好奇心を大いに刺激した結果、瞬く間に尾ひれのついた怪談に変わっていった。

「そのユーレイには角が生えてるんだって。角人間だって!」
「目が合ったらまものを呼ばれちゃうから、目隠しして逃げるといいんだって」
「なんだそれ! ピクシーとまちがえたんじゃないのかー?」
「ピクシーよりもっと大きかったって。ケイトが言ってたよ」

 隣家の庭で子供が輪になり遊んでいるのが遠目に見える。昼下がりの暖かな風に乗って届いてくる弾んだ声が癪に障って、ヴァンは危うく抱えたリネンに皺を作るところだった。

「ふん! ゆーれい見に行く勇気もないくせによ!」

 文句をつけにいきたかったが、父の仕事の手伝いを済ませるのが先決だ。賑わいから目を逸らして、干し終えたばかりのタオルを邸内に運び入れる。
 彼らが話している幽霊の噂は自分も知っている。それどころか、彼らに噂を教えたのがヴァンだった。
 数日前、実家の宿泊客経由でいち早く噂を聞いたヴァンはすぐさま近隣の年少達を集めた。テラネの町の実権を握るアユテランの子供として生まれたからには、自分が近所の子供達のまとめ役をするべきだと思っていた。宿に泊まる旅人達の話を盗み聞きしていたのも、一番は自らの好奇心を満たす為だけれど、新しい遊びを皆に提供する責任感も幼いなりにあったからだ。角人間の怪談話は、のどかな日常の退屈を紛らわすのに格好の話題だと思った。

「だからさ、お前ら! 夜抜け出してさ、角人間のゆーれい、見に行こうぜ!」
 けれど、彼らはヴァンと正反対の醒めた顔をしていた。
「ええー。夜って、まっくらじゃん」
「それにヴァンといくと…おじさんが…なぁ」
「おれ、めんどくさいから行かない」

 白けた顔で断られるのはよくあることだったから、彼らの態度は不服だったがまだ飲み込めた。しかし、そのくせヴァンが不在の場でああして楽しげに憶測で遊んでいるのは許せなかった。

「……俺がゆーれい見つけても、絶対あいつらには教えてやんねー!」

 判然としない悔しさをぶつくさと発散しながら、ヴァンはタオルの山に意識を切り換えようと努めた。そうだ、自分は町一番の宿の看板息子なのだ。両親や下働きに混ざって宿の仕事をしている自分は、あいつらと違って暇ではないのだ。今やっているリネン運びは退屈凌ぎの為に両親にお願いして分けてもらった仕事だということを、ヴァンの頭は都合よく無視していた。
 幾度か庭先と邸内を往復して手伝いを済ませると、報告の為に父を探した。客間で書面を眺める幅広の背中を見つけ声を上げると、ヴァンを認めた父は破顔した。

「おお、ヴァンか」
「父ちゃん! 終わったー! ぜんぶ取り込んだぜっ」
「すごいぞ、お前は働き者だな。流石私の息子だ」
「へへ。いつものことじゃんか」

 宿の手伝いをするのは疲れるが、暇潰しになるし両親が喜ぶので嫌ではない。褒められる度に今のようにぐしゃぐしゃと髪を撫でられるのも。

「まだ日が高いな…ヴァン、どうだ。これから森に入るが、ついてくるか?」
「ほ、ほんとか父ちゃん! 行く行くっ!」

 思いもよらないご褒美だった。食料の採取や樹木の保全の為に森に入る父に同行したいと何度思っただろうか。ヴァンの願いは大抵聞き届けてくれる父なのだが、町の外に出る事だけは「まだお前は五歳なのだから」と渋られていた。どういう風の吹き回しなのだろうか、自分が一端の働き手だと分かってくれたのだろうか。実のところ理由などヴァンにとってどうでもよく、ただ好奇心を満たせるのが嬉しかった。

 宿の本棟にほど近い西側の森林地帯は、昔からアユテランの家系によって管理されている土地である。精霊力が溜まりやすい一帯には薬草の群生地があり、今日はその採取に向かうのだと父は言った。
 森に踏み入ると空は樹木の連なりによってテラン河のように青い帯に切り取られ、降り注ぐ午下の柔らかな日差しが枝葉の縁を光らせヴァンの瞳を細めさせる。

(町に生えてるのと同じな気がするけど、ちがうなぁ。皆いっしょだと楽しいのか?)

 いきいきと幹を伸ばしている樹木を夢中で見回しながら歩いては躓いた。途中から父と手を繋ぎ小道を進むと、ほどなく開けた草地に出る。
 父は背負った荷物を解き、目印だろうか紐の結ばれた一本の樹を撫でるとヴァンの方に振り返った。

「奥に入ってくる…すぐ戻る。危ないからお前はここで待っていなさい」
「行ってらー」
「いいか、待っているんだぞ。行きたい所があるなら、後で連れて行ってやるから」
「わかってるって」

 父を見送り一人になったヴァンは、木の幹に甲虫が止まっていないか探し始めた。二匹捕り逃し、初めて見る種類の三匹目と睨み合っている時だった。鋭く、しかし遠い鶏鳴が正面の方向から聞こえて、ヴァンは眉をひそめた。

「…なんだあ?」

 テラネでは半数ほどの町民が大なり小なり養鶏しているので鶏自体はありふれているが、森にいるというなら話は別だ。ヴァンの家もまた鶏小屋を備えているので、小屋から脱走した鶏が迷い込んでしまったのかもしれない。

「野犬かなんかにいじめられてんのかな…」

 父の言いつけをすっかり忘れて、鶏を捕まえてやろうとヴァンは鳴き声のした方角に向かった。木々の隙間を軽々と掻い潜り進み、藪を踏み抜いたその時。
 体重を支えるはずの地面は藪の下にはなく、空を踏んだヴァンはあっと言う間にバランスを崩して切り立った土層を転がり落ちていった。


「い、ってぇ……」

 視界が回転しなくなってから、ヴァンはゆっくりと身体を起こした。
 頭が焼けるように痛い。無意識に頭頂に触れると、ぬるりとした感触がある。そのまま眼前に運んだ掌には、鮮やかな赤色が塗られていて、見慣れない色を確かめるようにヴァンは何度か瞬いた。

「……マジかよ?」

 頭から血が出るなんて、もしかしたらまずいのではないだろうか。幼いヴァンには傷の具合は分からなかったが、生き物としての本能がヴァンの心に危機を囁き震えさせた。
 転がっている際にぶつけた身体も痛みの熱を訴えていたが、頭痛が酷くてそれどころではない。近くの幹を支えにして時間をかけて立ち上がると酷い目眩がした。

「あ、う、…と、…父ちゃんのとこ、行かなきゃ…」

 どこまで落ちてきたのか周囲を観察したかったが、首を回すのも億劫で道のように陽光が落ちる地面しか視界に映らない。

「父ちゃん…どこ……?」

 ヴァンの胸の中にじわじわと不安が満ちていく。生気に満ちた心地の良い植物達は一転し、迷宮のようにヴァンを覆い建設的な思考を塞いでいた。
 草を踏む音が背後から聞こえて、身体が震える。

(な……なんでこんなときに……!)

 動物だろうが人間だろうが、いつものヴァンなら食ってかかって声を張り上げていた所だが、遭難の予感と頭部の出血が常になくヴァンを弱気にさせていた。音を漏らさないように両手で口を塞ぎ、おそるおそる音の方へ振り向く。背の高い草に紛れるように人影がこちらを見据えている。明らかに背格好は父ではなかった。逃げた方が良いと分かっているのに、足が動かない。
 必死にヴァンが呼吸を繰り返していると、人影は揺らいだ声を発した。

「よ、よし…困ってる人がいたら助けなさいって、おじいちゃんだって言ってたもの」

 人影はほどなくこちらに駆け寄ってくる。陽光に照らされて容貌がはっきりとするとヴァンは目を丸くした。明らかに、子供だ。

(うわ、…うわ、こいつ、角がある!)

 十代前半ほどに見える少年の額には本来人間に無いはずの突起が伸びている。テラネでは珍しい丈の長いゆったりとした衣服を着ているが、角を除けば顔や手足に特異な点はなさそうだ。ヴァンの頭の中で幽霊の噂が渦巻いていた。目を閉じていた方が良いだろうか。叫んだ方が良いだろうか。

「あ…あの……ケガ……」

 ヴァンまであと十歩ほどの距離まで来て、少年は不安を顔一杯に浮かべて手近な木陰に隠れてしまった。

(いや、おかしいだろ)

 正体は分からないが、襲うにしても話すにしてもそこまで寄ってきたのなら踏ん切りをつけるべきではないだろうか。思わず突っ込みを入れかけてヴァンは首を振る。少し、気が抜けてしまった。

「おーい…お前、大丈夫かよ?」
「えっ。そうだ、き、君こそ大丈夫? ねぇ、どこぶつけたの?」
「全部、だけど…頭が、ズキズキする…」

 今までヴァンが聞いた事のない柔らかな声色に惹かれて素直に答えると、先程の逡巡が嘘のように少年は素早くヴァンの方へ駆け寄ってきた。

「そう…。……、これなら、僕でも…なんとかなるかな…」

 ヴァンの頭頂部を覗いてから少年は膝をついて指を組み、何かを囁く。すると少年の身体から燐光が浮き上がりヴァンの身体に渡ってきた。

「うわっ?」
「大丈夫、じっとしてて……」

 光は初夏の夕暮れに似た温度を纏いながらヴァンの頭上に居場所を定めた。少年の頬を伝う汗が増えていくに従って、食い荒らされるような頭の痛みが薄れていく。
 光が消失すると同時にヴァンは後頭部に手を伸ばした。生乾きの血のぬめりが手につくが、触れた刺激による痛みは全くない。信じられずに何度も頭を撫でても、窪みも亀裂も見つけ出せなかった。

「治ってる? なんだこれ…!」

 現実だと信じられなくて、ヴァンは頬をつねってみた。怪我と比べれば笑えるくらいの鈍痛があった。
 少年が用いたのは治癒魔法だろうというのはヴァンにも理解できた。ヒーラースペル自体はテラネの神官が使用しているのを見た事がある。幼子がかかる流行り熱の際にはヴァン自身も世話になったらしい。だが、傍目に神官の魔法を見た限りでは、効果はあくまで治りが早くなるというもので、数分で傷を綺麗に治してしまった今の光景は、強力な魔法使いを知らないヴァンにとっては衝撃的なものだった。

「よ、かった。傷が、思ってたより、…浅かったみたいで」

 少年は全力で駆けた後のように肩で息をしている。額の角が淡く光を帯びていて、自然と視線が引き寄せられた。子供が魔法を行使出来るのは、眼前の少年が噂の幽霊だからとしか思えなかった。

「……角人間のゆーれい、すげえ」

 ぎゅっとローブを握って俯いた少年に、ヴァンはどきりとする。しまった、と思った。
 少年の気分を損ねたらしい事に、自分は何故こんなに動揺しているのだろうか。

「…それって、僕のこと? なんで…そんなこと言うの」
「なんでって」

 ただ、少年を表す名前をそれしか知らなかっただけだ。どう説明したものか迷っていると、困惑したように少年が面を上げた。

「……コーンス族の事、知らないの?」
「コーンス…? 角人間って、コーンスぞくって言うのか?」
「事情は分からないけど…僕達の事だと思う。でも、その呼び方は好きじゃない」
「なあ、…じゃあさ、ゆーれいってのも違うよな! お前、生きてるんだな!」

 幽霊じゃないならどこかの町に暮らしているということで、つまり一緒に遊べるかもしれないということだ。痛みの去ったヴァンの頭には、元来旺盛な好奇心が無事に戻ってきていた。
 少年はますます困ったように眉を下げている。

「何…どういう意味? …その、幽霊っていうの、なんの話…?」
「ゆーれいってのはさ、」

 説明しようとするが、少年は立ち上がってヴァンから数歩後じさった。

「……。やっぱり、無理だよ……」

 微かな声を拾い損ねてヴァンが近寄った分だけ、少年は距離を取る。
 少年はヴァンの左手に広がる方角に向けて指を差した。その先には獣道と見紛うほどに細い土肌が伸びている。

「えっと……あそこをまっすぐ進んだら森を出られるから。川沿いにくだっていけば、町があったはずだから…なんとかなると思う。気をつけてね」
「え? ちょっと待てよ、俺、」

 指差した方角とは別の方向に進む背中にヴァンは焦った。つまり、もうお別れなのか。もっと話してみたいのに。
 何よりまだ伝えてない事があるのに。
 不思議な少年を引き止めようと腕を伸ばした瞬間だった。

「ヴァン! ヴァン!! いたら返事をしてくれ!」

 上方から声が響く。父の声だ。何より望んで、同時に今最も聞こえてほしくない声だった。案の定、少年は「わっ」と小さく声を上げ素早く森の影に溶けていってしまった。

「ゆーれいじゃ、ない…よな…ぜったい…」

 少年の後を追いかけたい気持ちも強かったが、必死で自分を探している父の声を聞くうちに、押し留めていた緊張がどっとヴァンを襲った。とにかく、家に帰りたかった。
 呼びかけに大声で返事をしてお互いの居場所を確かめ合いながら、時間をかけて父と合流した。

「ああ、よかった……ヴァン……」
「父ちゃん、ありがと……」

 土に汚れた父に強く抱きしめられながら、ヴァンは少年のおずおずとした顔を思い出していた。
 彼にお礼を伝えられなかったのが、心残りだった。

 そのまま家に帰ったヴァンは、湯浴みをすると有無を言わさず寝巻きに着替えさせられベッドに寝かしつけられた。
 外傷はほとんど残っていなかったが、青ざめた顔の父を見てはヴァンも反発する気にはなれなかった。

「ヴァン、すまんな…。ゆっくり休みなさい。手伝いは気にしなくていいから」

 鼻まで覆った毛布の中でヴァンは小さく唸る。森で出会った少年が気になって寝るどころではない。

「…なあ父ちゃん。角人間のゆーれいって知ってるか?」
「ああ……くだらん噂が流れているようだ。ヴァン、心配することはないぞ。トールの魔物が下りてきているのだろう。帝国軍に陳情しておくからな」
「あのさ。コーンスぞくって…まものじゃないよな?」

 灯りを落とそうとした父の動きが止まった。

「コーンス…どこでそれを?」

 父から吐き出された声は今までに聞いた覚えのない冷たさがある。コーンスという単語は父にとって忌まわしいものなのだろうか。

「俺、ゆーれいに会ったよ。でも、そいつ、コーンス…とかなんとか、言ってて…」
「……角つきが私の町の近くにいるとは。ああ、ヴァン、怖かっただろう」
「そういうんじゃ、なくて、俺……」

 上体を起こそうとするヴァンを制して、父はランプの火を消した。

「対策を考えよう。私に任せなさい。安心してお眠り、ヴァン」

 頭を一撫でして部屋を出て行く父の足音を、ヴァンは呆然と聞いていた。父の様子がおかしい気がする。いつもならヴァンの言葉を隅々まで辛抱強く受け止めてくれるのに。
 ただ少年の手掛かりが知れれば良かったのに。父はコーンスについて何か知っているのか。少年の正体はなんなのか。魔法をもう一度見てみたい。もう一度会いたい。
 ベッドに潜る前よりも煩雑になった思考をかき混ぜ持て余すうちに、ヴァンの意識は闇に落ちていった。

 母の看病と抱擁をしつこいくらいに受け、数日してようやく外出を許されるようになってから、ヴァンは町に流れる幽霊の噂にそれとなく耳をそばだてるようになった。
 角の生えた少年を見間違えたのが噂の真相だと言うのなら、目撃場所を辿ればいつかは再会出来るはずだ。
 その幽霊はウィル・ウィスプだ。いや病に伏せった人間の出来物が悪化してしまったと聞いた。夜の森で灯火を見た。東の森の採取地で。
 新鮮さを失いとりとめのない話の種として脚色が進んでもなお、コーンス族の可能性は人々の口に上らない。
 ただ分かったのは、町中を舞台とした作話がないことと、東門の森近くでの目撃情報が多いことであった。
 噂の切れ端を頼りに少年の生活を想像してみる。地図に載らない規模ではあるがトール登山の中継地点となる宿場町はテラネの他にいくつか存在しているから、恐らく少年はそういった村の神官の子供なのではないか。

(たぶん…テラネには、やくそうを取りに来てんだろうな。…そん時に、会えるかな)

 噂の発端である川辺には一番に足を運んでみたが、何人かの知り合いが水汲みをするばかりで目的の人物は見つけられなかった。
 以降は湧水地や採取地に狙いを定めて、町の周囲に広がる森の入り口を調べ回った。
 予後を心配する両親の目を盗むのは困難でなかなか家を抜け出せず、捜索自体も難航してしまい、探し始めてから二月の時が過ぎた。
 自分が森から枝を見つけるような無茶をしている自覚が薄らあったからこそ、町北東の採取地で少年の後ろ姿を見つけた今この時、ヴァンは天空神の導きというものを本気で信じてもいいと初めて思った。

「よおっ! やっと見つけたぁ!」
「あ……!」

 葉陰に屈み小動物用の罠を仕掛けていた少年は素早く立ち上がる。明らかに逃走の意図が見える足取りだ。ヴァンは慌てて駆け寄り、少年の正面に回り込み進路を阻む。

「なっ、なんで逃げんだよ」
「…………」
「なんでだまってんだよ!」

 脅してやろうというぐらいに語調を強くしてみても、少年の唇は引き結ばれたままだ。

「……っ、むしすんなよっ!」

 せっかく会えたのに。楽しみにしていたのに。ヴァンは一歩踏み込んで少年の胸元をぐいと押しやった。期待に応えてくれなかった相手へのもどかしさを表す方法を、ヴァンは他に知らなかった。
 込めた力は反発もなく薄い身体に沈んで、あっけなく少年はしりもちをついた。

「……は? なんで……」

 少年を見下ろして、なおさらヴァンの心はささくれ立つ。少年はヴァンよりもずっと背が高く、押し込める力も速さも手加減をしていたし、きちんと身構えていたらバランスを崩すはずなんてなかったのに。

「……なんでは僕の方だよ」

 土色の瞳に捉えられて、息を呑む。記憶に残っていた不安そうな印象とは違う、強い意志が瞳の中に見えた。

「君の大声、聞こえてたよ。何度も。なんで僕を探そうとするの」

 まるで獣が毛を逆立てるかのように、警戒の衣を纏っていた。ヴァンが背を向けたら、瞬く間に逃げてしまうだろう。
 どうしてそうなる。ただ話してみたかっただけなのに、まるでヴァンが少年を害そうとしているかのように扱われている。
 ヴァンは一拍大きく呼吸をした。そうだ、恐らくは単純に誤解されているだけだ。

「決まってんだろ! ……だって、言うの忘れたから。ありがとう、って」
「……え?」
「この前、俺のケガ…治してくれて、ありがとな」

 やっと胸のつかえが取れた気がして、ヴァンは頬を緩めた。
 座り込んだままの少年は、何度も瞬きを繰り返している。

「……、それだけ?」
「そ、それだけってなんだよ! 物も欲しかったのか? そーいうの、ぼったくりって言うんだぜ!」

 とは言うものの確かに、両親は町の人達に何かと物を配って回っているし、逆も然りだ。こういう時には食べ物や薪を持ってくるべきだったのかもしれない。少年の強張っていた顔がみるみるうちに柔らかく溶けていくのが見えて、余計に羞恥が増した。

「ひどいこと言ってたのに、お礼だけかぁ。そうなんだ……ふふ、ふふふっ」
「なんだよお! すげえって思ってたのに、性格わりいな!」

 心がむずむずとするのを舌打ちで紛れさせようとしたかったが、込み上げる熱で舌がもつれてしまっていた。認めたくないが、少年の笑顔を見れたのが嬉しかった。

「あのね。僕の魔法の事なら、凄くないよ。あの時使ったのは初歩的なものなんだ。
 おじいちゃんはもっともっと強い魔法を使えたもの」
「でも、あんなすげーまほう初めて見たぜ」
「そうなの? 僕達以上に高度な魔法を使える人間も沢山いるって聞いたけどなあ。
 あ、魔導アカデミーがあるのはエンシャントだけなんだっけ…えっと、この辺りは…どうなのかな…」

 ヴァンは首を傾げた。少年の話す言葉は町の子供達と毛色が違って難しい。だが、どうやら警戒を和らげてくれたのは間違いなさそうだった。

「お前ってさ、もしかして……森に住んでるのか?」

 ヴァンが隣に並んで腰を下ろしても少年は距離を取ろうとはしなかった。毛先のはねた茶髪が縦に揺れる。
 やはり、と納得がある。少し話しただけだが、彼はテラネの年長の少年達と比べて世間擦れしていない。

「……あ。ねえ、僕がここにいること、他の人には言わないでね」

 まさに帰ったら少年の存在を両親に自慢しようと思っていたので、ヴァンはぎくりとした。

「でも…だいぶお前のこと広まってるぜ。町のやつら、色々話してるし」
「えっ。そ、それでも、言っちゃ駄目」
「ダメなのか」

 今はまだ幽霊として認知されているが、正体が分かるのは時間の問題なのだから良いのではないか。念押しすると、少年は膝を抱える力を強めた。

「町の人間に会いたくないから……」
「あー? ……も、もしかして、お前…ワルモノかっ」
「っ、違うよ!」

 わざわざ人目を避けて森の中で暮らすからには一大冒険譚を隠し持っているかもと期待したが、残念ながら牢屋を命からがら脱獄したとか、腐敗した権力者を倒して追われている、なんて訳ではないらしい。
 少年は眉根を寄せていたが、ヴァンの顔をしばらく見つめると何かに気付いたように力を抜いた。

「……君ってさ、もう少し別の言い方できないのかな。悪い事なんてしてないよ」

 潤んでくる瞳を隠すように、少年はぎゅっと目を閉じる。

「ただ…心の準備ができてないんだ。このままじゃダメだって、……分かってるけど」
「ワケわかんねえなあ」

 躊躇うような重たい声に滲む真意は気にも留めなかった。真意よりも額の突起よりも知りたいことが山程あった。両親以外の他人にこんなに興味が湧くなんて初めての経験だ。これがきっと友達を作るという事なのだ、と内心腑に落ちる。

「でも、おもしれえな! ゆーれい…じゃなくて、えーと…とにかく正体がこんなおもしれえやつなんて! へへ、なあ、お前を俺の子分にしてやる」
「どうして? 子分は嫌だよ」

 え、と呼吸と一緒に声が零れる。この流れで断られるとは考えてもみなかった。少年の顔には嫌悪の一欠片も見当たらない。自分の事が嫌いな訳では、なさそうなのだが。

「……友達を作ったら俺の子分になるって、父ちゃん言ってたのになぁ」
「それって、変わってるね。というか、君が……うーん」

 浮かんだ言葉を探すかのように少年は空を仰ぎ、突然声を上げた。

「ふあっ、もう日があんな位置に…まだ何も獲ってないのに!」
「あ。ほんとだな」
「あのさ、もう行かなきゃ。君が元気そうでよかった。ねえ、僕の事はもう探さ──」
「なあ! また明日ここに来いよ。俺、もっとお前と話したい!」

 今度も勝手に去られては困る。慌てて少年の服の裾を掴んで約束をせがんだ。少年は頬をかいて、やがて柔らかな息を吐き出した。

「……、…うん。わかったよ」
「! 約束だぞっ」

 翌朝、ヴァンが朝食を片付ける頃には両親は家を出ていた。父が巡礼客の入山案内の為に家を空ける事自体は珍しくないが、この時期に母の手まで借りる事態とはヴァンにとって幸運と言うしかない。キッチンのバスケットに積まれた杏を二つくすねて麻袋に入れてから、ヴァンは家を飛び出した。
 方向感覚には優れている方だし、二月かけて町の近辺も歩き慣れてはいたが、それでも昨日と同じ場所に辿り着く頃には朝は逃げ去りすっかり日差しが強くなっていた。
 木の実を取ろうとしているのか枝に手を伸ばす少年が見えて、内心ほっとしながら大仰に腕を振って駆け寄った。僅かに間があったものの、少年も小さく手を振っている。

「よお! また会えたなっ!」
「君が来いって言ったんじゃないか」
「迷いかけて大変だったぜ。次会う時はもうちょい分かりやすい場所にしねーとなぁ」

 家から時間もかかるし、出来るならば迷いにくくかつ町近くの場所が良い。良い場所を少年に探してもらおうかと思案しつつ手近な木の幹に目印を刻む。振り返ると、小首を傾げている少年と目が合った。

「次があるって、なんで決まってるの?」
「お前が俺の子分よてーだからだ!」
「子分じゃない」

 昨日と同じ冷静な声で返されてしまい、ヴァンはむくれた。

「うるせえなー。お前は友達なんだから、つまり子分だろ?」
「…理屈がわかんないよ。会ったばかりで、いつ…その、…と、友達になったの?  名前も知らないのに…」

 何故か少年の頬が仄かに赤く染まっている。確かに、名乗らないのは自分だったら不快に思う。宿屋の一人息子の名前と容貌はテラネ中に当たり前に浸透していたから、自己紹介の発想が無かっただけではあったが。

「あー、名前な。俺はヴァン! ヴァン=アユテランな」
「アユテラン……君、やっぱり、テラネの子なんだ」
「ん」
「そっか……」

 少年が考え込んでしまったのでヴァンはわざと大きく靴音を鳴らした。

「お前の名前!」
「え、ああ、ごめんね! 僕の名前はナッジ」
「ふん」

 目の前の自分に集中してくれない腹いせも込めて、袋から杏を取り出して乱暴に投げる。取り落とすかと予想したが、動揺し空を遊ばせながらも何とか掌にその丸みを収めていた。

「これでお礼はおわりだかんな!」
「え? …あははっ、君って素直じゃないんだね」
「わ、わかんねえけど、ばかにしてんのか!」
「ねえ、馬鹿にしてないよ。君みたいな人間に…初めて会ったんだ」

 杏を両手で包む手つきが優しいせいで怒気がしぼんでしまう。彼が自分を侮ったり見下したりなんてしていないのは、自分が一番よく理解している。

「ヴァンって言ってんだろ! 俺も…角人間って、呼ばねえし」

 ヴァンの思う通りにならないのは町の子供達と同じなのに、彼にペースを崩されるのが、悔しいけれど決して不快じゃない。自分にはまだ難しい言葉を使って、すらりと身体も伸びていて、なのに幼く頬を上気させる、不思議な少年。ナッジ、と口の中で音を転がしてみる。嫌な音では、ない。
 まるで見計らったように小さく頷いて、ナッジは微笑んだ。

「……あのさ、ヴァン。僕の家、教えるよ。ついてきて」

 木々の隙間の道なき道を進むナッジの後をなんとか追いかけると、やがて開けた湖畔に出た。一際大きな樹の主枝の狭間に板が敷かれ、その上に簡素な作りの小屋が建てられている。

「うひゃあ……」

 小屋まで伸びる梯子の前に立ち、初めて見る樹上の家屋を呆然と見上げていると、ナッジの笑い声が聞こえて我に返った。
 促す声に頷いて梯子を登り部屋に入った途端、青臭さと清爽さの入り混じった薬草の香りが鼻を通り抜ける。視線を横にずらすと、作業台の上に薬研と数種類の草花が置かれたままになっていた。
 薬瓶と本の他は最低限の備蓄と家具が置かれた室内を見回すうちに、後ろに続いていたナッジもまた梯子を登り切ったようだった。

「人が来ないから…ここなら安心して君と話せる。狭くて悪いけど」
「母ちゃん達は出かけてんのか?」
「親はいないよ。一年前まではおじいちゃんがいたけど…死んじゃったから、今は僕だけで使ってる」
「あ……。そ、うかよ…」

 予想外の返答に、ヴァンは口ごもった。戦乱と無縁なテラネ育ちのヴァンは、ナッジの歳で孤児になり得るという発想が無かった。気まずさをごまかしたくて頭を必死に回転させる。

「しんせきとか、知ってる人は?」
「行商のおじさんとは時々話すけど…それ以外は」

 平然とした温度で話す声とは裏腹に表情に暗さを映しているのがなんだか見ていられなかった。毎日一人で過ごすなんて平気な訳がないと思う。

「……テラネに来ればいいのに」
「出来ないよ。僕はコーンスだから」

 一瞬、父の冷ややかな声が脳裏をよぎって、追い払うように頭を振った。

「コーンスだとだめなのかよ。俺、コーンスは初めて見たけど、リルビーとかドワーフとか、人間じゃないやつらもたまに宿にきてるぜ」
「そうなんだ……」

 励ましたつもりだったのに、余計にナッジの表情が沈んでいってしまって、腹の底がちくりと痛む。そんな顔をさせたい訳ではなかったのに。一人の時には、いつもこんな顔をしているのだろうかと想像をしたら我慢できなかった。

「わがままなやつだなあ! なら、…俺がっ、たくさん遊びに来ればいいんだろ!
 家の手伝いある日は、これねえけどっ」
「……どうして、そんな大変なことするの?」
「だってよ、さみしいのって、…つまんないだろ?」

 愛してくれるが多忙で家を空けがちな両親。父の顔色を気にして厭わしい目をヴァンに向ける大人。同世代の賑わいに混ざれない苛立たしさ。別に毎日が嫌な訳ではない。時々はうまく噛み合い満たされる日だってある。
 けれど、そんな日々の中でも訪れる、霊峰トールの雪颪のように凍える感情が渦巻く瞬間を、身体を丸めて独りで耐える辛さをヴァンは確かに知っていた。

「……ねえ、ヴァン」
「なんだよ、…ナッジ」

 深呼吸を繰り返しているぐらい続きを躊躇っているのに、一人の生活を選ぶくらいに怖がりなのに、こちらを見つめる眼差しには芯がある。だから、友達にするには申し分ない。独りにしておくには、勿体無い。

「また……家に来て良いよ。僕、待ってるから」
「…へへっ! じゃあ明日もだなっ」
「えっ、手伝いがあるんじゃなかったの。遊んでばかりは良くないよ?」
「う、うるせーな!」

 ふつふつと湧いてくる何かが暖かくてもどかしくて、ヴァンは友達の背中を叩いてごまかしたのだった。

 それから、ヴァンは両親の目を盗んで幾度もナッジの家に通った。
 森で食料を集めてからナッジの家にこもり、陽が傾くまで話し通すのが二人のお決まりの流れになった。
 普段ナッジは木の実や罠にかかった小動物を食べて暮らしているのだと言う。狩りや罠作りは下手で、獣肉が取れない時もあるから、そういう時には行商のおじさんにお願いして薬と交換してもらうんだ、と恥ずかしそうに笑っていた。祖父から教わり自作している調合薬は、一部のドワーフ達の間で重宝されているらしい。
 物心ついた時から二人きりで祖父と暮らしていた経緯を踏まえても、ナッジの根幹には祖父の存在が大きく根差していた。面識もない祖父の存在を傘に着て嗜められるのは時に煩わしかったが、ナッジが祖父を誇る姿は共感を覚え率直に好ましかった。
 ナッジが祖父の姿や本を紐解いた知識を話せば、ヴァンもテラネの様子や宿に来る客が話す外の世界を伝える。ナッジの話のいくつかは幼いヴァンには難しかったが、ヴァンは気にしなかった。話の内容はさして重要ではなく、顔を輝かせるナッジの様子をこそ何より望んでいたから。
 家を発つ時の両親の小言や知己の胡乱な視線に苛立つ暇もないほど、ヴァンは友達と過ごす時間に心躍っていた。

 その日は話に夢中になって日が暮れてしまったので、町近くまでナッジが同行することになった。ヴァンとしては甚だ不服の結果である。

「一人で帰れるのによー」
「意地張らないでよ。夜に一人で町の外にいるなんてさ、魔物に食べられちゃうよ」
「お前は食べられてねーじゃん」
「僕の家、木の上に作ってるし、退魔の魔法もかけてるから。簡単なのだけど」

 そう言ってナッジは掌の上の光をヴァンの方に掲げた。出発の際に「こっちの方が魔物避けにもなるから」とランタンを持ち出さず魔力で灯火を作っているのが不思議だったが、時間差で合点がいく。
 忙しなく周囲を見回しているナッジの顔がほのかに照らされている。魔法を行使する時には角が光を持つのだが、薄闇の中だとより額に灯る光が目立つ。
 魔力の光を見ながらふと思う。この黒い森を上から見たら、今のナッジは月のように見えるのだろうか。夜空という正しい場所から地に落ちてきて動けない月を想像する。
 その瞬間、ヴァンは無意識に口を開いていた。

「ナッジ、お前さ。今日は俺の部屋に泊まれよ」
「それって、僕もテラネに入る、ってこと?」
「おう。明日になったらさ、町ん中あんないしてやる」

 ややあって返ってきた声は小さかった。

「……前も言ったけど。出来ないよ」

 予想通りの返答ではあったが納得はできない。ヴァンはこの数ヶ月をナッジと過ごして確信した事がある。ナッジは、時々口うるさいが温厚で、ありふれた子供だ。町にいたってちっとも変ではない。

「お前は、ずっと森にいるのか? ずっとかくれてるつもりなのかよ」

 ナッジの足が止まった。光を乗せた掌が微かに震えている。

「っ、別に、隠れてるのが好きなわけじゃない!」

 すぐにはっとした顔をして、ナッジは眼差しを伏せた。

「……おじいちゃんにも言われたんだ。テラネで暮らせるなら、それが一番良いって」
「ナッジ……」
「ヴァンの言う通りだ。今の僕は……何もせずただ隠れてるだけ」

 そこまで分かっているのに、それでも頑なに怯えているのは何故なのか。
 ──自分は見当もつかないのだろうか。本当に?
 ヴァンはぎゅっと目を瞑った。腹の重たくなる感覚をやり過ごしてから、目を開く。こちらを不安そうに見下ろす土色の瞳と視線がぶつかった。

「……俺の町、そんなに嫌か」
「そう、だね。……ヴァンがいる町、なんだよね」
「ナッジもいる! テラネに、いる。お前ん家は、テラネなんだ」
「こんなに、町とは遠いのに。君は、……」
「なんだよ……おい、ナッジ!」

 ヴァンの苛立ちを一瞥して、再び進み始めてしまった背中を追いかける。ヴァンは草を大仰に踏んで、二人に落ちる夜を掻き消そうと歩いた。
 町の灯りが行く道に見え、町の門まで辿り着いても、ナッジは口を開こうとはしない。
 立ちすくんだまま動かない背中を、少し悩んでからつつく。

「なあ、ナッジ。行こうぜ」
「……う、うん」

 頷いた事に内心安堵しながらそのまま進もうとして、門の見張り番をしている二人組の男に行く手を遮られた。一人は顔に見覚えがある程度だが、一人は父の宿の手代だった。ヴァンも度々世話になってはいるのだが、神経質で口うるさい男で、この場で会いたくない類の知り合いだ。

「遅いぞヴァン坊! 旦那が探していたぞ」
「これから帰るって。早く通してくれよ」
「ヴァン坊、おまえ、最近度を過ぎてるぞ。……そいつのせいか?」

 男が目配せをすると、もう一人の男がナッジの腕を掴んで捻り上げた。

「いっ…!」
「おい、何してんだよ!」

 急いで腕をほどこうと男に飛びつくが、筋肉に張った腕はヴァンの介入をものともしない。男はヴァンを一顧だにもせずナッジを睨みつけた。

「例の角つきだな。おめえアユテランのせがれに何してた!?」
「ぼ…僕は、送りに来ただけで…夜は危ないから…」
「危険なのはてめえだ、角つきが!」
「…ヴァン坊を誑かしておいて、よく面を見せられたもんだ」

 一片も意味を理解できない、ただ純粋な嫌悪が固まった言葉が、身を小さく竦ませている友に追い打ちをかける。その冷ややかな棘に憤りが募る。抵抗もせず大声に震えている姿のどこに、男達が警戒するような危険があるというのか。

「ナッジを放せ!! わけわかんねーよ、友達を連れて来ただけだろ!」
「ともだちぃ? ……角つきが。面倒事を持ち込んでくれたな」
「はぁ!? いいから放せよ!」

 ヴァンの言葉にむしろ余計に顔を険しくして、男はナッジの身体を腕ごと動かそうとする。ヴァンは咄嗟に男の腕に噛みついたが、舌打ちと共に脚で腹部を蹴られて引き剥がされた。

「おい、ヴァン坊にケガさせると後が面倒だぞ」
「すまん、つい。……ったく。あのな、俺だって好きで角つきに触ってる訳じゃない。厄がつきそうで嫌なんだよ」
「わかんねえ! わかんねーよ! 早く放して、帰らせろよ!」

 手代の男から差し伸べられた手を払ってヴァンは立ち上がった。じくじくとした腹の痛みが外と中のどちら側から生じているのか、判別はつかなかった。

「ま…待って、ヴァン。…あの、僕、帰ります…から…」
「ナッジ! ちげえだろ!」

 青ざめた顔のままナッジは連れ出そうとする男に応じようとしている。ヴァンは叫んだ。こんなのは間違っている。自分達が譲歩する必要なんて無い。だって自分達は、テラネに帰りたいだけだ。

「おいっ、やめろよ!! 旅のやつらだってふつーに町にいるじゃんか! 俺の友達だけダメなんて、んなわけねーだろっ!」
「ほらヴァン坊。送ってやるから、旦那にちゃんと謝りなさい」

 構わず振り上げた拳はいとも容易く手代の男に止められて、そのままヴァンも腕を握られた。いくらもがこうとも取られた腕は剥がせず、引きずられながらなんとかナッジの方を振り返る。もう一人の男に乱暴に連れ去られていくのをどうしようもできず、それでもなんとかしたくて何度も名前を叫んだ。一度だけ振り返ったナッジの顔には曖昧な笑いが浮かんでいて、何故だか喉が詰まってヴァンはそれ以上何も言えなくなった。

 ナッジの姿が見えなくなると、ヴァンは抵抗をやめた。何度目元を腕で拭っても視界がふやけてくるので、せめて手代に顔を見られないように下を向いて歩いた。
 自宅の扉を開けた途端、ヴァンは母に抱き締められ額に口付けられた。母の甘い声も、父の安堵の溜め息も、今のヴァンには全て滲んで聞こえた。

「お帰りなさいヴァンちゃん! あまり心配かけないで…」
「そんなに泣いて…ヴァン、怖かっただろう…」
「…ナッジと、っう、一緒にっ…帰ってきたのに…」

 両親がこんなに憔悴するような事は何も起きていなくて、友達を置いてきたのが悔しいのに、ヴァンの見ている現実と大人達の世界が重ならない。
 父は優しくヴァンの頭を撫でた。

「あれは対処しておくから、もう大丈夫だ。角つきには弁えてもらわんとな」

 角つき。それはナッジの名前じゃない。二つは繋がらないはずなのに、繋がってしまう。ヴァンがまだ学んだことのない単語が積まれて、目に見えない壁が築かれる。

「ぜったい、ちがう! なぁ、父ちゃん、俺のケガを治したのはナッジなんだぜ!? 町に入れちゃだめなんてあるかよ!」
「角つきは災いをもたらすんだ。関わってはいかん存在なのだよ」
「ヴァンちゃんは優しいから騙されてるんだわ……ひどい化け物ね」

 いたわる眼差しの深さと言葉の鋭さのちぐはぐさに、ヴァンの耳が苦痛を叫ぶようにきいんと鳴る。優しい両親ですら男達と同じだ。ナッジの話をすると優しくなくなる。ナッジを見なくなる。その理由がヴァンには理解できない。理解したくなかった。

「ナッジと会ってもないのに…、俺の話を聞いてくれよっ!」
「もちろんだ。お前が落ち着いたらゆっくり話をしよう」
「それっていつだよっ! なんでだ、なんで…っ!」

 激しい違和感に突き動かされて、母親の抱擁から逃れドアノブを掴む。両親の手が伸びる前に扉を開け、全力で走った。

「ああっ、ヴァンちゃん!」

 背中を撫でる声がする。ヴァンは耳を塞いで駆ける速度を早める。両親に対して怒りを覚えたのは初めての経験で混乱していた。大人の歪んだ世界にこれ以上耐えられなかった。一刻も早くヴァンにとって正しい世界に戻りたかった。

 ナッジの家に転がり込んだヴァンの目に飛び込んできたのは、大きな外套にくるまり部屋の隅で座り込む子供の姿だった。側に寄ると、外套の影に潜む顔の所々が赤紫色に変色しているのに気付く。

「ナッジ! さっきの奴にやられたのか、あいつ!!」
「……抜けてきて、大丈夫なの」

 ナッジは目元を赤く腫らして、それでもヴァンを認めると口元を緩めて笑みを作ろうとする。

「はあ!? 気になるとこ、そこなのかよ! バカじゃねえのか!!」
「バカじゃないから…」

 常の調子で微笑するナッジからは非難の色は感じられない。

(なんで笑ってんだよ…!)

 男達の非常識をあげつらうに留まらず、自身だってナッジに怒られるだろうと思ってここに来たのだ、それなのに。腹立たしさが収まらずヴァンはナッジの肩を揺さぶった。

「っ、なあっ、大人の言う事なんか聞かなくていいんだよ! 次はむりやり、」
「そんなの、解決にならないよ。いいんだ。分かってたよ。
 ヴァンに会えたから、浮かれちゃってただけだ……」
「ナッジはわかってねえよ!!」

 疲れたような友達の声が身体に入ると痛くて痺れて、形にしようもない怒りが渦を巻いて涙として溢れてくる。
 どうしてナッジが顔を腫らしているのか。理不尽を受け入れる顔をしているのか。なのにそんなに泣いているのか。今のヴァンには何も分からない。けれど、自分もナッジも何も悪くないのに、諦める必要なんてない事だけは、分かっている。

「一回なぐられたら、それで終わりかよ!?
 俺だって、最初はお前がゆーれいだって思ってた。お前が言い返して来たから、ちがうって分かった」
「ヴァン……」

 布を握るナッジの手を引き剥がして、己の手で強く握った。ヴァンより一回り大きな掌はびくりと震えたが、それ以上の抵抗はない。

「ちゃんと皆に話して、やり返してやんだろ! ナッジ!」

 長い沈黙を、ヴァンは必死に耐えた。傷ついた友が時間を必要としているのは、無意識ではあるが理解していた。

「……君と一緒なら。また、テラネに…行ってみる。でも、今は」

 ぽつぽつと落とされた声は途絶え、鼻をすする音しか聞こえなくなる。続きを探して、ヴァンは友達をくるむ布の内側に身体を潜り込ませる。こもったぬるい空気に、震える呼吸が溶けていく。

「……外に、出たくない」

 ナッジの手が熱い。それはヴァンの中でうねる怒りと同じ温度をしていて、けれどナッジの熱さが怒りに染まっていない事がヴァンには不思議で、嫌だった。
 ヴァンは何も言わず、縮こまったままのナッジの身体に寄りかかった。繋いだ手の温度がヴァンの中の奔流に混ざり、小さな決意として少しずつ形を定めていく。

(こいつが…悲しい顔してんのは、絶対、おかしいんだ。…だから)

 しゃくりあげる音が小さくなっていくのを感じながら、ヴァンは目を閉じた。

2023.11.24
2023.11.23 COMIC CITY SPARK 発行
ヴァン5歳ナッジ12歳



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